吉川英治「宮本武蔵」

戦前に大衆が争って読んだ大衆文学の傑作

この作品は、今日の宮本武蔵像を決定付けたような作品です。

ストイックで常に孤独。数々の受難に遭いながらも努力と不屈の精神で成長し、ついに日本第一の剣豪に上り詰めた人。

佐々木小次郎との巌流島の決闘ではわざと遅参して小次郎を焦らし、向こうが真剣で来たらこちらは木刀で挑み、しかも一撃で倒してしまった人…。

そうした「ヒーローの中のヒーロー」みたいな武蔵像を日本人に定着させたのが、この吉川版「宮本武蔵」なわけです。

この作品が連載された昭和10年から14年は、戦前日本最後の輝きと言いますか、世相がだんだんキナ臭くなってくる一方で、文化面ではプロ野球が本格的にスタートしたり、劇場が隆盛を迎えたり、芥川賞・直木賞の選考が始まったりと、大変賑やかな時代でした。

そのような時代にあって、庶民の最大の娯楽であった新聞小説に、当時すでに高名であった吉川英治による「宮本武蔵」が登場したわけですから、庶民は大喜び。しかも、良い意味で期待を裏切る「等身大の武蔵」の手に汗握る成長記という斬新な筋立てがウケに受け、朝、新聞が来るのをまだかまだかと待ったり、新聞を取っていない人が会社で我先にと争奪戦を繰り広げたりと、それはそれはすごい人気ぶりだったようです。

現代ではこういう現象はまず起きにくいですが、私が小学生だった昭和後期は、少年ジャンプの「聖闘士星矢」や「キン肉マン」の続きを待ち焦がれるガキンチョで溢れていました(私もそうでした)ので、その雰囲気は分かります。

まあこのように、空前のブームを巻き起こした吉川武蔵ですが、戦後も幅広く読まれ、何度も映画化され、最近では井上雄彦さんの「バカボンド」という大ヒット漫画の原作になったり、2003年には大河ドラマ化されたりと、発表後、半世紀を過ぎてもその人気は衰えることを知りません。それだけに影響力も強く、吉川武蔵が宮本武蔵の実像として日本人の心に刻み付けられてきた感があります。

ところが一方で、実はこの小説の中身は史実とかなり違っていることが最近の研究で分かってきています。

そもそも武蔵は巌流島の決闘に遅参していないし、佐々木小次郎も一撃で死んではいない。しかも、まだ息のあった小次郎にとどめを刺したのは隠れていた武蔵の弟子たちで、それに怒った小次郎の門弟たちの復讐を恐れた武蔵は、門司城の城代に助けを求め、豊後国(大分県)まで逃げたという、少々情けないエピソードまで伝わっています。

また、昔の映画でよく見られた小次郎のあの桃太郎みたいな恰好。あれも吉川氏の完全なる創作です。それどころか、小次郎の実際の年齢は60代であったという説もあり、そうなると、宮本武蔵の物語は我々の知る話と全く違うものになりかねません。

とはいえ、私はそうした創作尽くめの吉川武蔵を今さら非難しようという気はないです。「たけぞう」という悪童が剣士として生きる道に目覚め、恋人のお通、悪役のお杉、又八、朱美との数奇な縁にもがきながら、強敵たちと戦い続け、人として成長していく物語。そこで史実はどうこうと語るのは野暮というものでしょう。むしろ小説の醍醐味を心ゆくまで楽しむほうがはるかに有意義だと思います。

又八が悪さをするたびに歯ぎしりをし、お通が足手まといになるたびに「何やってんだ!」と苦い思いをし、吉岡一門や宍戸梅軒との息詰まる死闘には血沸き肉踊り、ラストの小次郎との戦いでは静けさの海に沈んでいくような寂しさを覚える。非常に起伏が激しくて、ドラマティック。全7巻もあるので読むのに覚悟は要りますが、できれば中学生くらいの思春期の子に読んでほしいです。人生とは何か、自分の日々の生活に甘えがないか?大いに考えさせられ、きっと自身の成長の糧になると思います。

最後に余談を少々。

この作品は何度も映画化されていると書きましたが、中でも個人的に推しなのは、昭和の名優・中村錦之助主演による1960年代の東映作品です。昔、テレビで全5部作が一挙放映され、テレビにかじりついて見たのを思い出します。

中村錦之助は「子連れ狼」でも有名ですが、あの雷のように激しい声と眼光の鋭さ。とにかくカッコイイ。今でも最高の武蔵だと思っています。少々古いですが、この映画もお勧めですよ。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA