文京区立森鴎外記念館(東京台文京区)訪問記(3)

☆文京区立森鴎外記念館(東京台文京区)訪問記(1)
★文京区立森鴎外記念館(東京台文京区)訪問記(2)

昭和まで記憶に刻まれた「森のおじいさん」

千駄木駅を降りて団子坂。その先にある文京区立森鴎外記念館。

残念ながら、内部は完全撮影禁止なので、お見せできないのが大変残念ですが、広い館内をいっぱい使って、鴎外の生涯を非常に丁寧に解説しています。

 

幼少~青年期の鴎外

記念館は、まず幼少~青年期の鴎外、そう、彼が生まれた島根県津和野町時代→第一大学区医学校(現・東京大学医学部)までを振り返る史料から始まります。

幼い頃から英才教育を施され、類まれな俊英として認められていた鴎外が20歳を前に、私生活上のトラブルや、実質飛び級というハンディのため、研究者と海外留学という大きな目標を前に挫折したこと。逆にそれが契機となり、彼が陸軍医としての人生を歩み始めたこと。このあたりは、「人生」の面白さを感じさせますね。

そして、鴎外という人は大変周囲の人に恵まれていたのだなあ、と思います。挫折してぶらぶらしていた鴎外の陸軍省入りを友人たちが手引きしてくれたり、はたまた念願のドイツ留学が叶って、まだ明治と西洋との接点も薄い時期に、現地の人々から温かく歓迎されたり。鴎外のものすごい才能と社交性があってのものでしょうが、こうした「縁」の力は大きいと思います。

このゾーンの展示は、ウイキペディアなどからは辿れない若き鴎外の苦悩や、そんな彼を支える周囲の存在がクローズアップされていて、とても面白かったです。

 

文豪鴎外の誕生、そして晩年へ

青年期のゾーンをL字に曲がると、そこからは鴎外が成功への階段を駆け上がった時期の資料が展示してあります。

鴎外は帰国して軍医としてのキャリアを高めると同時に、当代随一の文学者としての道を歩み始めます。鴎外はこの頃から様々な芸術作品や自然科学に触れ、一個人として並々ならぬ教養を蓄えていきます。彼の優れた小説の底流には、こうした文化的素養の深さが作用しているのかもしれません。

最初の結婚と長男の誕生、短期間での離婚。その後だいぶ経って若い奥さんと再婚するなど、プライヴェートではずいぶん慌ただしい時期を過ごします。でも、色欲に溺れるような性質とはまるで正反対であったようで、彼は子供たちを心から愛し、厳格だが愛情に満ちた父親として家庭内ではたいへん尊敬されます。

それにしても、展示資料を見ていると、鴎外は生涯にたくさんの書簡を遺したことが分かります。まあ現代の我々だって、メールやらLINEやらインスタグラムなどを使って、数えきれないやりとりをしているので、書くこと大好き、交友関係いっぱいの鴎外がこれだけ多くの書簡を遺していたって不思議ではないのですが、まあ大変な分量です。

そして展示ゾーンの最後、「あっ、これが文豪・森鴎外の御顔なのか」と思わず熱いものがこみ上げてくるような、鴎外のデスマスクが目の前に現れます。

良き家庭人となり、陸軍医を立派に勤め上げ、余暇は存分に自分の書きたい「文学作品」の創作に打ち込み、周囲の畏敬を集めた鴎外。迎えた最晩年、1862年の出来事がそこに詳細に綴られていました。

鴎外は亡くなる直前、眼の中に入れても痛くない娘の茉莉をヨーロッパ旅行に送り出します。茉莉さん(1903年-1987年)は、まさかこれが父との今生の別れになるとは思ってもみなかったようで、父親への愛情が深かった彼女は生涯、この時の呆気ない別れを悔やんでいたことが作品から窺えます。

娘を見送った鴎外、ふっと肩の荷が下りたようになり、持病であった腎臓の不調が悪化します。そして、そのまま死の床に着きました。彼は生涯を通しての親友・賀古鶴所に遺言の筆を執らせます。

 

森鷗外の遺言

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
森 林太郎 言(拇印)
賀古 鶴所 書

森 林太郎
男     於莵

友人
総代   賀古鶴所
以上

森鴎外、死去。60歳の短くもやるべきことをやり尽くした生涯でした。

 

森のおじいさん

全ての展示を見終わって出口の方へ進むと、休憩スペースを兼ねた視聴覚室が見えました。

こんなことを言うのもなんですが、いつもならこのようなお部屋はスルーしてしまうのですが、ちょっと見学に疲れていた私は、椅子を求めて部屋の中に入り、ビデオに目を遣りました。

映像は、文京区の会報を作っているというご婦人に対してのインタビューでした。彼女は結構長い間、会報誌の編集に携わっていたという人で、駆け出しの時期は昭和にまで遡ることを匂わせていました。

昭和というと、鴎外のご子息も存命だったくらいですから、当時の文京区内には鴎外を見たことがあるという老人が、それこそゴロゴロいたそうです。鴎外は千駄木のお屋敷に住む「森のおじいさん」として、近所の人たちから親しまれていたらしく、そのことが時を経て彼女の口から我々に伝えられるのは、実に感慨深い気がしました。

今となっては鴎外の姿は写真でしか拝めませんが、この文豪の思想、格調高い言葉遣いはこの先何年経とうとも、その作品を通して、受け取ることができるのです。

森鴎外60年の生涯を刻んだ鴎外記念館、ぜひお越しください。

http://moriogai-kinenkan.jp/

 

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