三国志を読もう!2

日本の三国志人気の源泉 三国志演義とは

前項で、日本における「三国志」普及に大きな役割を果たした「横山三国志(漫画)」と「吉川三国志(小説)」について書きましたが、この二つがなければ「三国志」は知られていなかったのか、と言いますと、決してそうではありません。

この2作品の元ネタ、「三国志演義」はすでに江戸時代に日本に輸入され、以降、庶民を中心に広く読まれている作品でした。

吉川英治も、少年時代に寝る間を惜しんで「三国志演義」を読み耽り、親から叱られたことを後年告白しています。

それほど大衆の心をつかんだ「三国志演義(以後、演義と略します)」ですが、成立年代は中国の明代、1300年代後半と古く、日本では「太平記」や「曽我物語」が書かれた時代にあたります。

後述する原典「正史三国志」については、すでに平安時代の貴族階級に読まれていたようですが、大昔の庶民は漢文なんてロクに読めません。演義もしかりです。それが、元禄年間になって、湖南文山(天竜寺の兄弟の僧の筆名)が我が国で初めて演義の訳本「通俗三国志」を出し、これがまさに爆発的なヒットを飛ばしたのです。

「通俗三国志」の人気はその後ますます加熱し、江戸後期の天保年間には葛飾北斎の弟子、葛飾戴斗挿絵による「絵本通俗三国志」が出版されます。これも飛ぶように売れ、普及しまくったので、東京の古書店などをまわると、今でも現物にお目にかかることができます。

絵本通俗三国志 全75冊揃 江戸後期 葛飾戴斗 – 日本の古本屋

やがて明治維新となり、中国どころか西洋の大作もどんどん翻訳されるようになると、「通俗三国志」も様々な出版社から出るようになります。中でも最も信頼を置かれたのは、「五重塔」で有名な文豪・幸田露伴によるエディションでした。

一流の文学者による近代的な校訂が加えられ、読み物でなく文学作品としての演義が漸く誕生した、という印象です。現代の我々が読んでも、文語体による格調高い文章が映え、十分面白いと思います。

その後、吉川英治による小説が登場し、劉備や曹操、諸葛亮の名前は誰もが知るところとなりました。さらに柴田錬三郎や陳舜臣の小説、また横山三国志やコーエーの歴史シミュレーションゲームの影響で、演義は女性や子供にまで熱烈なファンを増やし、中国古典文学ながら「論語」などと同等に、日本社会の中でステータスを得たのでした。

では、順番が逆になってしまいましたが、本場中国では演義はどのように読まれてきたのでしょうか?次項では、演義の成立史や様々な謎について見ていきたいと思います。

 

謎の多い「三国志演義」の作者や成立過程

日本で大人気の「三国志演義」ですが、成立は14世紀末、中国の明という時代だと言われています。

言われています、というのも変ですね。実は演義は、いつの時代の誰が何という媒体にどうやって書いたということが詳しくわかっていない作品なのです。

ザックリ言えば、晋の時代に成立した陳寿による歴史書「三国志」をもとに、後世、様々な伝承や語り芸が作られ、演義のひな形のような話が成立し、それらを明代の誰か、おそらく羅漢中だと推測されるが、その人物が一編の小説にまとめ上げたのが「三国志演義」である….。そんな感じでしょう。まったくもって不明瞭な解説です。

これは、同じ中国四大奇書として日本でも愛読者の多い「西遊記」や「水滸伝」でも一緒で、前者は呉承恩、後者は施耐庵らしい、と言われているだけで、確証はありません。施耐庵に至っては実在さえ疑われている始末です。

「西遊記」も昭和時代に小学生を経験した人なら、みんな作者は呉承恩で覚えていたはずなのですが、最近は否定説の方が優勢で、すでに権威である岩波文庫でさえ、翻訳者の中野美代子さんのお名前しかクレジットしていません。

では、演義の羅漢中は?と言いますと、少しは状況がマシで、「西湖遊覧志余」や「録鬼簿続編」という史料に物書きとしての彼の記録を見出すことができます。どうやら実在はしていたようです。

それでも、演義の作者として確たる資料は何一つ残っていません。それどころか当時の講釈師連中が、人付き合いも悪く、最後は出奔してしまった文士の羅漢中の名を借りて、演義を創作したなどという、シェイクスピアの都市伝説みたいな話がかなり信ぴょう性のある話として採り上げられているくらいです。

このように、作者については非常に心もとないのですが、ただ学会でもはっきりしているのは、演義は1300年代後半には成立していた、ということです。

そもそも、晋代の史官・陳寿(233-297)が後世に正当な歴史書と認められた「三国志」を著した後、その筆があまりに簡潔すぎるということで、劉宋の裴松之(372年 – 451年)という人が、当時の資料などを搔き集め、膨大な註を付したのですが、この註が面白いエピソード満載で、信憑性のある一級資料からジャンキーな説話までも含めてしまったため、後の荒唐無稽な民間伝承のきっかけを作ってしまったのです。

 

その荒唐無稽な部分は、お寺で僧侶が説法の格好のネタとして活用したり、語りを生業とする講釈師たちが面白おかしく語り広めることにより、ますます肥大化していきます。そして、中国が経済も文化も世界でトップクラスに登り詰めた宋代ともなると、「子供たちがうるさい時は銭を与えて講釈師を呼び、座らせて三国の物語を聞かせると、劉備が負けたと聞いて涙を流し、曹操が負けたと聞くや大喜びする」と大詩人・蘇東坡が書いたくらい、三国志は市民の娯楽として定着しているのでした。

やがて、蒙古が中国を支配する元代となります。この時代は文化が荒廃したと思いきや、逆に芝居小屋を中心とする演劇や演芸がものすごい発展を遂げた時代で、関羽を主人公とする戯曲がたくさん書かれます。また、「説三分」という三国志ものが講釈場の人気演題となり、その台本はとうとう書籍化されました。これが、『至治新刊全相平話三国志』、いわゆる「平話」と呼ばれるものです。

なんと、その当時の「平話」は我が国の国立国会図書館に収蔵されており、ネットで読むことができるんです!

至治新刊全相平話三国志 – 国立公文書館 デジタルアーカイブ

「平話」は、劉備の蜀を正統とする蜀漢正統論に基づいて書かれています。つまり、陳寿が正統とした魏の曹操は完全な悪玉。しかも、最後に統一するのは晋ではなく、五胡十六国の前趙の劉淵となっています。劉淵は、滅びた蜀の末裔という設定ですが、史実的には匈奴の人間であり、ここまでくれば蜀びいき極まれりといった感じです。

そんな「平話」ですが、あの魅力あふれる燕人・張飛が大活躍。その活躍ぶりは、劉備・関羽を凌ぐほどです。しかも、ストーリーも魔術あり妖術ありで、やりたい放題の展開。ただ重要なのは、それだけハチャメチャであっても、すでにこの「平話」によって、現代の我々が知っている三国の物語がほぼ完成しているという事実です。

 

そして、三国志演義は出来上がった

このような三国物語の市民階級への普及の過程を経て、宋の次の明代の文士であった「羅漢中」と思しき人物が演義をまとめ上げたというのが、現時点での定説です。

演義は、「平話」の血沸き肉躍る要素をギリギリのところでセーブしながら、読み物としての面白さをあの手この手で引き出し、さらには荒唐無稽なネタから文学としての脱皮を図らんとおそらく正史などを読み直して史実との整合性を高め、雄大なロマンあふれる作品として、陳寿の正史から1000年もの月日を経て漸く完成しました。

三国志演義は、四大奇書とか通俗小説とか言われていますが、次から次へのハラハラドキドキの展開や、「君と余だ」の際の劉備の動揺、曹操と関羽の間の情義、泣いて馬謖を斬るのくだりなど、一流の文学者、知識人しか描けないような優れた心理描写もあり、私は「ドン・キホーテ」と並ぶ、中世冒険小説の傑作だと思っています。

ここまで「三国志演義」の成立史は見てきたわけですが、次に巷にあふれる「三国志演義(作家によるオリジナル作品は除く)」について、じっくり見ていきましょう。

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