三国志を読もう!4

演義の完訳版は岩波文庫から

前章では、三国志演義の入門編として、長い原典を分かりやすくコンパクトにまとめた子供向けのものをご紹介しましたが、今回はいよいよ全訳本を見ていきたいと思います。

まず、スタンダードなものから。前回、岩波少年文庫版でも訳者の一人を務めていた小川環樹さんと、金田純一郎さんによる演義の全訳です。なお、挿絵は「絵本通俗三国志」より葛飾載斗の版画が使われています。

さて、中身の感想ですが、学者さんによる昔の翻訳なだけに、若い方は言い回しにやや古めかしさを感じるかもしれません。しかし、このいかにも軍談物たる格調高い雰囲気は別格で、文章もウェットに停滞せず、流麗にリズミカルに進んでいきますから、全8巻、あっという間に読み尽くしてしまいます。最初に手に取る演義全訳としては、まず文句のつけようがないでしょう。

解説も充実しています。小川氏は、史記や唐詩の優れた翻訳や研究の第一人者ゆえに、成立背景や時代とのかかわりなど、かなり綿密に記述しておられます。解説がひとつの優れた読み物になっているというのも、なかなか稀有なことかと思いますので、岩波版をお持ちの方でこの解説を読み飛ばしてきた方は、ぜひじっくり読み直してみてください。

さて、続いては講談社学術文庫から出ている三国志演義全訳です。

訳者の井波先生は、有名な中国文学研究者で、この演義全訳の他にも「水滸伝」の全訳、さらにはちくま文庫の「正史三国志」の翻訳にも携わっています。研究実績から、我が国における三国志研究の第一人者と言って良い方です。

その井波版演義ですが、小川・金田版に比べて遥かに言葉が現代寄りです。それは決して、若者に迎合した砕けた表現ではなく、近代小説として無理のない自然な言葉が慎重に選ばれています。もし高校生や大学生に勧めるとしたら、井波版が最も無難かもしれません。

そして、私がこの版に最も信頼を置くのは、註の豊富さです。人物や地理、単位、何気ないセリフの意味するところまで、章ごとに懇切丁寧に解説されています。演義のより深い面白さを知るには、この註の存在は非常に大きく感じられます。

※ちなみに、これから中国四大奇書を読んでみようかな?という方には絶対お勧めしたい下記の新書も井波先生の著作です。数々のエピソードや当時の歴史的背景な織り交ぜ、四大奇書の面白さを様々な角度から検証しています。

続いて3種類目。こちらも中国文学の大権威・立間祥介さんによる大変有名な翻訳です。

この立間版がなぜ有名かと言いますと、以前、NHKで放送され、子供たちに大人気だった「人形劇三国志」の原作とアナウンスされていたからです。実際は、テレビ版の内容は全く別物でしたが、下の写真のように、出版元の徳間書店が表紙を人形劇で飾ったりしたため(初版)、原作と認識され、よく売れました。まあこういうところ、さすがメディアミックスのうまい会社だな、と感心します。

ただ、かつては非常によく読まれた立間版(徳間文庫)ですが、2018年現在、絶版になっているようです。これは非常に残念なことと言わざるを得ません。

余談ですが、徳間には他にも『史記』や『十八史略』、諸子百家などの優れた名訳が絶版状態で、一部はkindle(電子書籍)として出版しているようですが、一刻も早く、この素晴らしい事績を新しい形で復活させてもらいたいものです。

話を戻しましょう。立間版の演義は、小川・金田版と井波版との中間という感じ。文体は少し講談調なのですが、使われる単語はそれほど古めかしくない。小学生の男の子でもスリルを感じながら読める愉しさが備わっています。キャラクター同士の会話など、それぞれの性格が滲み出てくるようで、立間さん独特のセリフ回しが読んでいて面白いです。

個人的な話をしますと、立間版は中学生の頃、駅前のブックセンターで夢中で立ち読みしていたのを思い出します。黄色い電話帳みたいな本で、字も小さいのですが、それが大人の読む教養書のようなプレミアム感を醸し出していて、店員さんの迷惑も考えずにむさぼり読んでいました。当時の店員さん、ゴメンナサイ(。-人-。)

まあ、そういう思い入れも作用して、もし立間版が復活したら、私はこれをイチオシとします。あれ?小川版じゃないの?とお叱りを受けそうですが、実は翻訳自体はあれで文句ないのですが、どうも葛飾載斗の挿絵が邪魔になるんです。葛飾の絵は、中国のキャラクターではなく、日本の歌舞伎を想起させる絵のため、どうしても「三国志を読んでいる」という興が削がれてしまう。

その点、立間版は挿絵のあるヴァージョンは違和感のないものを採用してあり、訳文は先程述べたとおりの面白さですから、むろんイチオシとなります。ただ入手に難がありますから、若い方は井波版を、読みごたえ重視の方は小川&金田版を、というのが私の結論です。

さあ、今挙げた3つのヴァージョンの他にもまだまだ演義の優れた訳はあります。以下、簡単に紹介しておきましょう。

ここで翻訳を務めるのは、「封神演義」のリライト作家としても知られる、安能務。元々マイナーだった「封神」にあれこれアイディアを加え、すこぶる魅力的なエンタメ小説に生まれ変わらせた実力者ですから、この演義での飛躍っぷりもなかなかすごいです。

これは結構以前から出ているものです。著者の村上知行は大変な苦労人で、幼い時に父と死別、丁稚奉公に出るも病気で右足を切断。有名大学に進むような華やかな道のりは歩まず、旅回りの劇団に同行するなどして生活しながら、独学で中国語や中国文化を勉強した、という不屈の経歴の持ち主です。

その後も、何と政府や軍部に逆らって反戦の立場をとり(当時の世相を考えればすごい勇気です)、終戦後は執筆に専念。しかし最後は、ナイフで自らを刺して自殺するという、最期まで波瀾の人生を送りました。

しかし、そんな村上が訳した演義は、暗い影などなくあっけらかんとした文章になっています。かなり意訳が多く、癖の強い表現も見受けられるため、ファースト・チョイスには向きませんが、こういうものもあるという意味で、ぜひ挑戦してみて頂きたいです。

最後は、渡辺精一さんの訳です。上巻が「天の巻」、中巻が「地の巻」、下巻が「人の巻」で、並びが天地人となっております。

ところでこの渡辺精一さんという方、三国志に関する研究書や資料、そしていわゆるムック本を膨大に書いていて、おそらく三国志好きなら彼の本を一冊くらい手にしたことがあるかもしれません。

下の人物事典など、三国志の小説や同人誌をお書きになる方には必携の書かもしれませんね。それくらい綿密な内容です。

こういう方が訳する本ですから、中身は相当濃いです。井波さんの訳とかとは根本的に目指す方向が違うと言って良いでしょう。詩に重きが置かれ、註には正史との違いが事細かに指摘されています。

おまけに長い。おそらく初心者には手に負えないでしょうから、お薦めしません。ただし、それなりに三国志演義に親しんでこられた方にとっては、目からうろこの逸品になるでしょうから、ぜひチャレンジしてみてください。

以上で、演義全訳の紹介はおしまいです。

次回からはいよいよ三国志の奥の院であり総本山でもある、陳寿による「正史」について見ていきたいと思います。