三国志を読もう!6

魏と蜀 主人公選びに悩んだ陳寿

晋の時代、「三国志」の執筆にとりかかった陳寿は、ある重大な問題にぶち当たります。

それは、歴史書の宿命でもあるのですが、執筆者が正統と認める王朝を柱として書かなければならないという課題です。

これは陳寿にとって難題でした。そもそも「三国志」というテーマが異端であり、例えば「漢書」、「後漢書」なら漢王朝を正統な王朝とし、様々な出来事や人物を描き込んでいくことができる(「史記」は歴代の統一王朝毎に「紀」を立て、漢王朝代々の「紀」に結んでいます)のですが、三国時代には独立した3つの王朝が並立しています。

しかも、陳寿が仕えていたのは魏王朝から王位を簒奪して成立した晋の国。いくら個人の勝手な著作だから関係ないと言っても、時代が時代だけに、例えば蜀の国を正統とした歴史書などを大っぴらに書いたりしたら、クーデターの罪で殺されてしまいます。

そこで陳寿は、晋は魏から王位を簒奪したのではなく、禅譲を受けたのだ、という建前論をとり、魏の6人の王(曹操、曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐)について「紀」を立てました。すなわち、漢から禅譲を受けた魏、魏から禅譲を受けた晋という事実を持ち出して、晋政権の正統性を示したわけです。

一方、当代の政権は魏ではありません。そこで、「魏」「蜀」「呉」の3国の歴史については対等に「志」として扱い、魏を持ち上げすぎない態度を鮮明にしました。

この絶妙な書き方により、「三国志」は晋王朝から咎められることなく賛辞を受け、かつコバンザメ的な提灯史書とは真逆な客観性を有していたため(ここは世渡りベタな陳寿の性格が幸いしています)、後世からも信頼性の高い作品として不滅の評価を獲得することになるのです。

このように「三国志」は歴史書としては完璧な体裁を整えることができました。

ところが後世になって、この魏を正統とする陳寿の姿勢は文人や庶民から凄まじい集中砲火を浴びます。なぜならその後、学者たちによって「蜀漢正統論」なるものが唱えられ、劉備の蜀こそ正式な王朝であり、逆賊の曹家を持ち上げた陳寿の書き方は誤り!とされたからです。

※「蜀漢正統論」については、Wikipediaに詳しいです→ ウィキ「蜀漢」

それによって、20世紀の中ごろまで「蜀漢正統論」が主流となり、「三国志演義」が正史のような扱いを受けるというトンデモな事態が起こります。実際、前章までに列挙したように、劉備を主人公とする「三国志」の小説、漫画、映画、ゲームなどが氾濫し、挙句「三国志(演義)に学ぶマネジメント」のような自己啓発本まで現れたのですから、陳寿は1000年の不遇を受けたと言っても過言ではありません。

しかし、冷戦終結あたりから中国史の近代的な研究や論争が盛んに行われるようになると、インターネットの普及で若い世代にも三国時代の実情が広まり、陳寿の正史が漸く見直される流れになりました。

わが国では、1994年にちくま学芸文庫より「正史三国志 全8巻セット」が発売されたことが、ひとつの転換期になった、と個人的には思っています。

そのちくま版ですが、陳寿の再評価に一役買っただけではなく、世の歴史好きに「正史」とはどういうものか、ほぼ最初に知らしめたテクストとしても大きな価値を持っています

古い話になりますが、それまで一般人が比較的安く「正史」を読もうとしても、徳間書店のハードカバー版「中国の思想」シリーズで断片的にしか窺い知るしかできませんでした。ゆえに、原典のほぼ全訳であるちくま版は、三国志ファン待望のシリーズであったと言えるでしょう。※ただし徳間版は抄訳ながら、原文やすばらしい解説文を掲載しているので、古書店で見つけたら即買いをお勧めします。

さて、ちくまの正史に初めて触れることになった読者らは非常に驚くことになります。何となく噂で聞いていたとはいえ、正史が我々日本人の中に息づいている演義史観を真っ向から否定するものであったからです。

劉備は仁慈の人などではなく、実像は底辺からのし上がったかなりの荒くれ者。演義で無礼な県の役人を鞭打ったのは張飛でしたが、正史では劉備自ら役人を半殺しにして逃走しています。

一方、張飛や関羽は演義同様、その勇猛で爽快なエピソードが多数連ねられますが、傲慢と粗暴で命を落とす羽目になった、という論評で締め括られるほど、性格難を強調されています。

では、演義のダークヒーローであった曹操は、と言いますと、政治力、武力、文人としての能力全てにおいて高く評価されています。とは言え、賛美一色ではなく、冷酷な部分や自己中心的な振る舞いを行ったエピソードも容赦なく描かれ、かつ情に厚い性格、身分隔てなく才能ある者を登用する懐の深さなども記されています。

いちばんびっくりしたのは、諸葛亮の記述です。三国志演義における知の要であり、後半の主人公であるこの大ヒーローも、正史では非常に地味な描かれ方をしています。

そもそも、演義のあの魔術使いみたいな軍師ぶりが現実な話なわけがなく、戦略家としてリアルなところはどうだったのか興味深いところでした。ところが陳寿は、諸葛亮は政治家としては非常に優秀であるものの、戦は下手であったという、予想の斜め上を行く書き方をしているのです。

例えば、諸葛亮最大の見せ場である「赤壁の戦い」の勝利は、呉の軍師・周瑜の献策によるもの。諸葛亮は呉への平凡な使者に立った(周瑜や魯粛をけむに巻く「演義」の描写はありません)くらいで、ほとんど何もしていません。劉備没後の北伐も、あまり成果をもたらさなかった、と言う評価。応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかった、とまで断じています。

一方、演義ではほとんど触れられなかった彼の政治手腕は卓抜で、不便な僻地にある国家「蜀」の充実に粉骨砕身する姿が描かれます。

特筆すべき点は3つ。まず、放縦な民衆の気質を憂慮して法を厳格に運用し、信賞必罰を明らかにしたこと。次に、異民族(演義では何番と呼ばれた人たちです)を手懐け、後方の憂いを断ったこと。そして、勝つのは儘らなかったとはいえ、魏と呉から国を良く守ったこと。彼の努力がなければ、蜀はもっと早々に滅びていたかもしれません。

そして、彼にはもう一つ大きな功績があります。それは、すぐれた後継者を見出したことです。皆さん覚えておいででしょうか?「演義」のクライマックス、「五丈原の戦い」で、いまわの際の諸葛亮が自分の後任に、蒋琬と費禕という2人の臣を選んだことを。

「蜀志」の2人の伝を読むと、両者が政治家としても軍師としても非常に有能なのが見てとれます。愚かだと言われる皇帝・劉禅の蜀が諸葛亮の死後30年も持ったのは、ひとえにこの2人の中興の統治によるものだと評価したいです。

ちなみに、「蜀志」には蒋琬・費禕と同時代に活躍した楊戯の手による「季漢輔臣賛」という書物が併録されています。「季漢」とは「末っ子の漢」の意。辺境の蜀であっても、漢の正統な後継国家なのだ、と自負する蜀臣・楊戯のプライドが感じられます。なお、ここには執筆当初に存命していた劉禅や家臣たちを除く54名の功績について書かれています。

それにしても、魏を中心に据える「三国志」において、魏のライバルかつ西方辺境の小国であった「蜀」について、このような異例の一編を差し込んだ陳寿のこだわりに、彼の故国を愛する想いというものを感じずにはおれません。

このように、陳寿の筆は表面的に簡潔なものでありながら、その内面にはきわめて複雑な要素が絡み合っています。それを読み解くこともまた、今後の三国志研究の思いもよらぬ進展を促し、さらには三国志マニアの知的好奇心を掻き立てるのかもしれません。

紫式部の「源氏物語」、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」と同じく、この「正史三国志」も読めば読むほど深みにハマり込む長編です。しかし、それこそ読書の醍醐味であり、ある種の実りと達成感を感じさせる最強の長編として、皆様には一度はチャレンジいただきたいと思います。

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