少年漫画のような剣士の成長期
著者:吉川英治
〇作品名 剣難女難(けんなんじょなん)
〇連載「キング」大日本雄辯會講談社
1925(大正14)年1月号~1926(大正15)年9月号
〇講談社・吉川英治文庫 1/1975年/ISBN 4-06-142001-1
このブログでは、日本の国民的大衆小説作家である吉川英治(よしかわ・えいじ 1892(明治25)年8月11日 – 1962年(昭和37)年9月7日)について、徹底的に研究してみようと思っています。
前に書きましたが、私は2017年に念願の「吉川英治記念館」を訪問することができました。残念なことに同館は2019年に閉館してしまったので、もはや再訪することはできないのですが、ぎりぎり駆け込めたというのは、まさに人生最大の幸運だったと思います。
吉川英治記念館(東京都青梅市)訪問記(1)
吉川文学はまさに私の青春時代の友であり、生き方を示してくれたバイブルとも言えます。大衆小説にそこまで人生を左右されるのか?と不思議がられそうですが、吉川先生の作品には人間の強さと弱さ、高潔さと卑しさ、友愛と嫉妬、保守主義と個人主義がせめぎ合う形で書かれており、相反するものが激しく相克しながら、どちらにも勝利は訪れないのです。
例えば、宮本武蔵の主人公はいつもひどい目に遭いますが、確実に剣士として人間として成長していきます。その対象として描かれる悪役の又八は、武蔵の行く手を幾度となく阻むことに成功しますが、人として何者にもなれない。どちらももどかしく、テレビの時代劇のような、爽快に悪役を斬る分かりやすさがない。
三国志も、原典の「演義」と異なり、善玉と悪玉がはっきりしていません。英雄豪傑たちは常に悩み、慢心し、脆さをみせる存在なのです。それが非常なリアリティを持って読み手の心に響いてくる。
このように書くと、吉川英治の時代小説と言うのは近代的にインテリかぶれしていて、あまり面白くないのでは?と思われるかもしれません。
ところが、吉川英治は稀代のストーリーテラーと言って良いくらい、読み手を作品内に引き摺り込む天賦の才能を持っています。宮本武蔵や少年向けに書かれた傑作「神州天馬侠」あたりは、玲瓏な文章ながら、次から次へと話が動的に展開し、息をつく暇もありません。こういうところは本当に凄い作家だな、と実感します。
そして、そういう吉川英治のスタイルは、彼の名を最初に世間に知らしめた若き日の代表作「剣難女難」の時にはすでに完成していました。この作品は、講談社の「キング」という雑誌に1925年(大正14年)~1926年(大正15年)にかけて連載され、当時大変な人気となったそうです。
この作品、冒頭から殺気立った雰囲気で始まります。下級武士の娘・千浪が非道な連中にかどわかされ、助けに現れた父親も絶体絶命の窮地に追い込まれるという修羅場。
そこへ通りかかった二人の兄弟。助太刀とばかりに、兄貴の方がバッタバッタと敵をなぎ倒していきます。そしていよいよ敵の首魁で剣豪の大月玄蕃と差し向った時、お城から大勢の加勢が駆けつけ、無念、スキを突いた玄蕃は逃げてしまいます。
そんなこんなで、千浪の父と加勢の武士たちが通りがかりの剣士・春日重蔵の侠気を褒めたたえていると、暗闇から物音が。すわ敵か!と周りが構えると、現れたのはさっき兄貴の重蔵と通りかかり、そのままいなくなってしまった弟の新九郎。見るからに優男で、剣も握ったことのない彼は、青ざめてずっと隠れていたのです。
非常にみっともない姿を晒した新九郎ですが、この後ちゃっかり千浪と恋仲になります。
そしてこの一件を引き金に、事態は風雲急を告げ、千浪の父が仕える福知山の領主・松平忠房と、大月玄蕃が剣術指南役を務める宮津城主・京極家との剣術試合に発展し、登場人物たちは運命の奔流に呑まれていきます。
もうそのストーリーの動きの激しさたるや甚だしく、なよなよした新九郎が一流の武芸者に成長していく様は、まるで往年の少年漫画を読んでいる気分になります。例えていうなら、根性系野球漫画の「キャプテン」。または、ジャッキーチェン主演の映画「蛇拳」あたりが印象として近いです。
しかし、漫画のように新九郎がすんなりとパワーアップするのかと思いきや、そうでもないです。肝心なところで打ちのめされたり、どうしても超えられない壁にもぶち当たります。そして、その壁が実は新九郎にとって大きな味方になったりするところ、お約束と分かっていながらも堪らなく面白いです。
この後どのように展開していくか、新九郎と千浪の運命やいかに。それは読んでのお楽しみ。
あとこの作品、女難とタイトルに入っているので、多少のお色気要素はあります。しかし、案外そっけなく書かれているので、時代小説のそういうシーンが苦手な方でも大丈夫です。
日本の大衆小説の巨匠である吉川英治が、若き日に自分のスタイルを確立した「剣難女難」をぜひご一読ください。