寝る間を惜しんで水滸伝 第2回

前章【寝る間を惜しんで水滸伝 第1回】

庶民の娯楽から生まれた「水滸伝」

さて、庶民社会の講談の世界から出発し、『大宋宣和遺事』に原型を現すようになった宋江を首領とする叛乱軍のお話。

それは今日、「水滸伝」として世界中の人たちに愛読されています。

しかし、それほど有名な作品であっても、その成立時期、さらに作者名と言った重要な情報が、何といまだに明らかになっていないのです。

私が子供時代の昭和に発刊された「水滸伝」には、著者名はハッキリ施耐庵(したいあん)と書かれていました。ところが、近年の研究によると、施耐庵・非実在説が有力になりつつあります。

施耐庵墓

代わりに、真の著者ではないかと目されたのが羅漢中(らかんちゅう)です。あの「三国志演義」の著者だけに、さもありなんな感じはします。

しかし、羅漢中も謎に包まれた人物であり、作者とは断定されていません。では誰なのか?

一番あり得るのは、講談や元曲等である程度ストーリーが形作られていた好漢たちのエピソードを、匿名の誰か(もしくは複数のグループ)が秩序立ててまとめ上げ、それを権威ある羅漢中や施耐庵のネームバリューでブランディングした、という推論です。

現代で言えばWikipedia、もしくは5ちゃんねるのエピソード系スレッドみたいなもの。匿名の投稿者による都市伝説がだんだん1本の粗筋にまとめられ、それがたまたま世間でバカ受けして出版に至る。でも真の作者は誰か比定できない。そんな感じと言ったら良いでしょうか。

作者については諸説あって断定できないので、この辺にしておきましょう。

次に成立年代。研究によれば、明の嘉靖年間(1522年 – 1566年)に「水滸伝」は初めて出版されたとみられます。現存する最古のテクストが、万暦38年(1610年)に杭州の容与堂という書店が発売した『李卓吾先生批評忠義水滸伝』といいますから、すでに当時から人気があって増刷を繰り返していたのでしょう。ただし、施耐庵・羅漢中が本作をほぼまとめ上げてから凡そ150年が経過しており、大変な生みの苦しみを経て世に出たことが窺い知れます。

李卓吾先生批評忠義水滸伝(国立公文書館蔵)

ちなみに李卓吾と言うのは、嘉靖6(1527)年に生まれ、万暦30(1602)年に没した思想家です。もう「水滸伝」が容易に読めるようになった世代で、若き日は優秀な役人として活躍しました。

ただ彼は当時において進歩的な毒舌家として知られ、権力に胡坐をかいて腐敗しきった士大夫層を容赦なく叩いたたため、権力側の凄まじい怒りを買ってしまいます。

それでも李卓吾は舌鋒を緩めず、役人を辞めて反権力の著作を次々に発表し続けたため、ついに捕らえられ、獄中にて自殺するという悲劇的な最期を迎えてしまいました。

李卓吾(1527-1602)

そんな彼が生前、高く評価していたのが「西遊記」と「水滸伝」です。支配層を称揚する儒教(とそれを重んじる官僚)の立場から見れば、アナーキストが大暴れするこれら通俗小説を評価するなんて、本来はありえないことです。

ところが、型破りな思想家であり、権力の統治システムの本質を見抜いていた李卓吾は、人間がありのままに振る舞える「水滸伝」の世界こそ、理想的な社会だと喝破します。

李卓吾は結果、獄死しますが、庶民たちは彼の言説に拍手喝采を送りました。そして、彼が愛した「水滸伝」に「李卓吾先生批評」と冠し、「ああ、李先生が関わられているなら買わなければ!」と言うムーヴメントを起こしたのです。

実際に李卓吾が作中に批判を挿入したり、いやそもそも「水滸伝」の出版に関わったかどうかすら、分かりません。おそらく版元が、李卓吾推薦とすれば売れるだろう、と目論んで勝手に名付けたとみるのが自然でしょう。

これと似た現象が「西遊記」や「三国志演義」でもみられます。

西遊記の世界 第2回

ともあれ、この李卓吾効果により、「水滸伝」は庶民の間でバカ売れします。やがて、「水滸伝」は複数のバージョンに分かれたり、いよいよ日本に伝来したりするのですが、それは次回で。

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