高名な文豪が書いたスパイ小説
この本の作者 | サマセット・モーム |
この本の成立年 | 1949年 刊 |
この本の巻数 | 1巻 |
入手のしやすさ | ★★★★☆ |
未成年推奨 | ★★★★☆ |
総合感銘度 | ★★★★☆ |
サマセット・モーム「英国諜報員アシェンデン」を読み解く
サマセット・モーム(1874年1月25日 – 1965年12月16日)は、20世紀半ばまで生きたイギリスの文学史における屈指の文豪です。そんな彼の一生は順風満帆と思いきや、まさに小説のように波乱万丈なものでした。
モームが生まれたのは1874年。両親ともにイギリス人でありながら、父がイギリス大使館勤務の弁護士であったため、パリに生を受けます。ちなみに4人兄弟の末っ子。
本来なら何不自由ない人生を歩めそうですが、その両親がモーム10歳の時に亡くなってしまい、兄弟もろとも孤児になってしまいます。彼は叔父を頼り渡英。叔父との不和や、生来の吃音で酷いいじめに遭うなど散々な経験をしますが、その後は放縦な生活を過ごし、最終的に医学の道を選びながら、徐々に文学の世界に傾倒するようになります。
そして、小説や劇作で名を挙げつつ医師の資格を取得した彼は、第一次世界大戦中に軍医として従軍。とはいえ、本当の顔は諜報部員だったと言います。モームはMI6の諜報員として、革命の嵐吹き荒れるロシアに潜入し、何と工作活動まで行っていました。
そんな彼も病気などで徐々に諜報活動から身を引くようになると、執筆活動を本格化。『人間の絆』や『月と六ペンス』と言った偉大な作品を発表し、大評判となります。また、この頃、シリーという女性との間に娘ライザが生まれるなど、人生最良の時を迎えていました。
しかし、モームの実際の結婚生活は不幸なものだったようです。モームはかつて、女優スー・ジョーンズと8年間付き合っていましたが、失恋。傷心を塞ぐようにシリーと交際しますが、実は彼女は人妻で、子供まで身ごもってしまったため、当然、彼女の夫から訴えられます。
結果的に、モームはシリーとの結婚に漕ぎつけますが、今度は22歳の青年ジェラルド・ハックストンと交際するなど同性愛の傾向が強まり、結局、シリーとは15年間の不仲を経て別れています。
そうした不幸の一方、「世界の十大小説」を発表するなど、文壇で最高の地位に登り詰めていたモームは、後半生は悠々自適、世界中を飛び回る文化人として旅を楽しみ尽くしていました。日本にも来ており、昭和34年、日本橋丸善本店での「モーム展」開会式に出席しています。
成功と名声を手に入れたモーム。しかし、最後に落とし穴が待ち構えていました。ひどい認知症に罹った彼は、魔術師アレイスター・クロウリー(1875年10月12日 – 1947年12月1日)を介して悪魔に魂を売って成功したという妄想に悩まされ、周囲を困らせます。91歳という長寿を全うしながらも、こうやって見ると、その人生は決して平坦なものではありませんでした。
さて、サマセット・モームの作品は、その多彩さと深い人間洞察で知られています。
1915年に出版された『人間の絆』は、当初あまり評判になりませんでしたが、後に彼の代表作の一つとなりました。1919年に出版された『月と六ペンス』は、ゴーギャンをモデルにした画家の物語で、ベストセラーとなり、モームの名を一躍有名にしました。
また、モームは短編小説の名手としても知られています。生涯で120編を超える短編小説を書き上げますが、その多くは東洋を舞台にしており、異国情緒あふれる作品が多いのが特徴です。
今回取り上げる『英国諜報員アシェンデン』は、若き日々、諜報活動に身を置いたモームの実体験に基づいて書かれています。第一次世界大戦中の諜報活動を題材にしており、主人公アシェンデンの活躍は、モーム自身の諜報員としての経験が作品に強いリアリティを与えることになりました。
時はロシア革命と第一次大戦の最中。英国のスパイであるアシェンデンは上司Rからの密命を帯び、中立国スイスを拠点としてヨーロッパ各国を渡り歩いている。一癖も二癖もあるメキシコやギリシア、インドなどの諜報員や工作員と接触しつつアシェンデンが目撃した、愛と裏切りと革命の日々。そしてその果てにある人間の真実――。諜報員として活躍したモームによるスパイ小説の先駆にして金字塔。
この作品は単なるスパイ小説ではなく、極限状況下での人間の行動や心理を鋭く観察し、描写しています。国家のために働きながらも、個人の良心や感情と葛藤するアシェンデンの姿は、読者の心に深く響くことでしょう。国家のために嘘をつき、時には人の命を危険にさらすことを求められる彼の葛藤は、読者に「正義」とは何かを問いかけます。
また、作品全体を通じて戦争の無意味さが強調されており、諜報活動の成果なんて実際の戦況にほとんど影響を与えないことや、罪のない人々が巻き込まれていく戦争の残酷さと無意味さをモームは明確に暴き出しています。
ただ、そんな深刻なテーマを扱いながらも、随所にユーモアが散りばめられ、重苦しくなりがちな物語に適度な剽軽さが加わり、読者を飽きさせないのはすごい。
さて、第一次世界大戦(1914-1918)は近代的な諜報活動が本格的に始まった時期でもありました。それまでの戦争とは異なり、情報戦の重要性が認識され始めたのです。イギリスは、この分野で先駆的な役割を果たしており、有名な「ルーム40」と呼ばれる暗号解読部門を設立、敵国の通信を傍受・解読することで、重要な軍事情報を入手していました。
また、この時期には作家や芸術家たちが諜報活動に関わることも珍しくなく、モーム以外にも、推理小説の父と呼ばれるアーサー・コナン・ドイルや、『カサブランカ』の脚本家として知られるジュリアス・J・エプスタインなども、諜報活動に携わっていたと言われています。
彼らの経験は、後の文学作品に大きな影響を与えることになりました。モームの『英国諜報員アシェンデン』も、そうした作品の一つと言えるでしょう。実体験に基づく生々しい描写が、作品に独特のリアリティを与えているのです。