日本版「アンナ・カレーニナ」?ヒロイン藤尾の謎
夏目漱石の作品には、それぞれに熱烈なファンがいるものです。
「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」は、少年少女の文学読書の登竜門的存在ですし、「こころ」は20代~30代の男女にとても人気がある。その他、モテない男に染みる「三四郎」や、幻想的な「夢十夜」、続きへの妄想を膨らませる未完の「明暗」など、各作品のキャラが本当に多種多彩。ゆえに贔屓がそれぞれいらっしゃいます。
そんな中、「虞美人草」は漱石の全作品中でトップクラスの知名度があるにもかかわらず、評価が今一つ良くなく、強烈なファンと言うのはあまりお見掛けしたことがないような気がします。
これはひょっとしたら、ヒロインの藤尾があまりに個性的すぎ、共感を得られないことが大きいのかもと思い、今回読み直してみました。
「虞美人草」は、1907年に朝日新聞に連載された長編小説で、明治時代の日本社会を背景に複雑な人間関係と道徳的葛藤を描き出した物語です。
物語は、虚栄心の強い美女である甲野藤尾を中心に展開します。藤尾は、病気で隠遁生活を送る兄の欽吾が家督相続を放棄したことを利用し、自らの美貌と亡父の遺品である金時計を武器に、小野と宗近という二人の男性を翻弄します。
小野には小夜子という許嫁がいましたが、藤尾に惹かれてしまいます。小野の恩師である井上孤堂が、娘の小夜子との縁談をまとめるために上京しますが、小野は藤尾と小夜子の間で苦悩します。
ある日、東京勧業博覧会で小野が小夜子と一緒にいるところを藤尾に目撃され、問い詰められるという事態が起こります。これをきっかけに、人間関係がさらに複雑化していきます。
最終的に小野は心を入れ替え、小夜子との結婚を選択します。一方、藤尾は自らの虚栄心の犠牲となり、悲劇的な最期を迎えます。
物語は小野と藤尾と小夜子だけではなく、欽吾と宗近の妹・糸子の恋愛も交錯します。こちらは美しい純愛の象徴です。そして宗近は、生きる道を喪った欽吾と妹を結び付けただけでなく、小野に「まじめになれ」とまさかの友情の一撃を与えた「義」の象徴でもあります。
一方、大人になって読み直して、小野はどうしようもない人物だと気づきました。小夜子との破談を第三者の浅井に言わせたり、結果的にフラフラしていたのは自分なのに「僕は時計が欲しいために、こんな酔興な邪魔をしたんじゃない」と何様なひとことを藤尾に浴びせたり…。
藤尾も悪女ぶっていながら、ロクでもない男を獲物にかけましたね(笑)。
ただ、その藤尾についても、最近になって「虞美人草」を読み直し、彼女は本当に「悪女」なのか、甚だ疑問に思えてきました。
ハッキリ言って、何だかバカにしか見えないのです。(藤尾ファンの方、ごめんなさい<(_ _)>)
昭和時代、フェミニズムの嵐が特に文学界に吹き荒れていた時期に、「虞美人草」の藤尾は強い女性の象徴、近代的な生き方を体現したキャラクター、東洋のアンナ・カレーニナとして妙に持ち上げられていたことがありました。
でも、アンナ・カレーニナのようなロシア人の気宇壮大なスケールには遠く及ばないし、悪女と言っても誑かしているのは小野と宗近の二人だけ。しかも、ストーリーが進むにつれ、ろくでなしの井上への純愛、もしくは執着になる。
で、最後が金時計ですよ。しかも自殺までしますか?ひどいメンヘラにさえ思えます。
藤尾が本当に悪女なら、欽吾は彼女に殺されていたでしょうし、小野も犯人にでっち上げられたかもしれません。それが実際は、構ってもらいたいのに金時計くらいしか武器がなくて、バカにされて死んでいく、いろいろな意味でかわいそうな女性にしか見えないのです。
こういうところ、「虞美人草」は漱石にしてはイマイチ感があります。
ただ視点を変えて、宗近と小野。かたや立身出世のため死ぬほど勉強していた明治の新エリート層と、かたや高等遊民として生きる層になりますが、その対比に注目して読むと面白い。後者に擦り寄る藤尾と小夜子は、古い女性のステータスの象徴にすぎない、と分かるからです。
むしろ、清貧の中で結ばれる欽吾と糸子は、明治の変革の荒波に放り出された多数の庶民を象徴します。漱石にそう言う意図があったかは不明ですが、明治人のリアルな立場立場の生き方が浮き彫りにされていて、今回の再読では新鮮な発見が得られました。