大人向けの漱石も面白い(5)三四郎

時代を超える青春小説「三四郎」

さすがに「三四郎」は大人向けというより、中高生向けのような感じがしますが、「それから」「門」と三部作を成し、前作の「虞美人草」とは比較にならないほどの深みを獲得した作品ですので、取り上げることにします。

私がこの作品を初めて読んだのは1986(昭和61)年。すでに「吾輩は猫である」、「坊っちゃん」は読んでいて、ダイジェスト版に接していた「草枕」は、あんまり面白くないなあ、という印象でしたが、「三四郎」は読む前から強い興味を持っていました。

というのも、当時の昼頃(再放送は夜)にNHKラジオで「朗読」という番組があり、草野大悟さんという俳優が読んでいた「三四郎」があまりに面白すぎたからです。

草野大悟(1939〈昭和14〉年 – 1991〈平成3〉)年

草野さんは、この番組でのいわゆる「漱石番」でした。「それから」や「門」も読んでいた記録があります。草野さんの朗読は、芯のある低音ながら剽軽な雰囲気があり、まさに漱石の世界観を表現するのにピッタリな方でした。

結局、あまりの面白さに全部聴き通した私は、ためらわず書店で「三四郎」を購入。一番上の写真、ポプラ社の緑カバーのヴァージョンで、嬉しいことに挿絵付きでした。

よくある話で、ドラマはすごく面白かったのに、原作はパッとしない、というのがありますが、「三四郎」に関してはそういうことは全然なく、毎日熱心に読みふけることに…。

「坊っちゃん」に比べればやや暗い。「吾輩は猫である」のような洒脱さもない。でも、登場人物がみんな生き生きとしていて、悩み、驚き、駆け引き、焦りなどの内なる心がびっくりするくらい生々しく伝わってくる。小学生にはまだ早い作品ながら、大人向け小説の成熟した面白さを感じました。

それにしても、ヒロインの里見美禰子は悪女ですね。悪気なく三四郎を翻弄し続けます。彼女に比べれば、「虞美人草」の藤尾なんてわかりやすい女性です。

大人向けの漱石も面白い(4)虞美人草

しかし、一方の主人公・三四郎もパッとしない。子供の頃は「三四郎、がんばれ~」と実らない恋に懊悩する彼にエールを送りつつ読んでいましたが、この年になってみると何となく「三四郎、しっかりせい!」と思ってしまいます。それくらい彼は、思索する割には最初から最後まで慎重すぎる。よし子という魅惑的な女性もいるのに美禰子に拘り、それでいて進展を見出せない。

まさに、冒頭で彼が出会った謎の女のひとこと、「あなたはよっぽど度胸のない人ですね」が作中で重い意味を持ってきます。そういうところ、漱石は実に巧い。

そしてこの作品では「ストレイシープ(迷える子羊)」という美禰子が発した言葉も、大きな意味を持つようになります。その真意は、漱石自身の口から語られることもなく、今日でも諸説紛紛です。

それは何の意味もない、美禰子らしい気取った一言なのか。あるいは彼女に囚われて自分の殻を破れない三四郎を揶揄した言葉なのか。それとも、自我の目覚めを克服できない美禰子自身への戒めなのか。答えはどれか分かりません。

しかし、それらの説を一つ一つ肯定しながら読み進めるのも、「三四郎」の面白さだと思います。

最後に。「三四郎」には青春のほろ苦さを描くだけでなく、社会批判的な側面があることにも触れておきましょう。冒頭、彼が列車の中であった風変わりな男。のちに彼に大きな影響を与えることになる広田先生とのやりとりです。

「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。だからことによると自分の年の若いのに乗じて、ひとを愚弄するのではなかろうかとも考えた。男は例のごとく、にやにや笑っている。そのくせ言葉つきはどこまでもおちついている。どうも見当がつかないから、相手になるのをやめて黙ってしまった。すると男が、こう言った。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯ひきょうであったと悟った。

「三四郎」執筆当時の日本は、日露戦争の勝利で国全体が浮かれていました。しかし、明治維新を果たしてまだ50年ほどしか経っていない後進国が、世界の一等国になるなんて、そんな甘いものではありません。日本に誇れるものなんて富士山しかなく、あれすら人の手によるものではないのに。このままでは「滅びるね」と広田先生は喝破するのでした。

広田先生は、作中における漱石の分身でしょう。漱石は日本人の心の底に潜む驕りや暴走しかねない集団真理を見抜き、日本という国の行く末を案じていたのです。実際にその後の日本は西洋の荒波に呑まれ、1945年に破局を迎えるのですから、漱石の眼力には恐れ入ります。

漱石はのちに「こころ」でも、乃木大将の殉死と主人公・先生の自殺をシンクロさせる描写をしますが、こうした社会情勢の危うさを恋愛小説に巧みに織り込む漱石の筆力には、さすが文豪と唸るしかありません。この投稿を目にしたあなたが30代以上であれば、ぜひ大人の目で「三四郎」を読み直してみて頂きたいです。

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