岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第13回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第10回/第1回~9回のリンクを含む)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第11回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第12回)

岩波文庫解説目録2022に掲載されている、青帯(日本思想)の3冊を紹介します。

今回は2冊の岩波文庫を採り上げます。

まずは福田英子の「妾の半生涯」。

福田英子(1865(慶応元)年 – 1927(昭和2)年)は、津田梅子、石井筆子らと並んで、日本の女性の自立に大きな役割を果たした人物として知られています。

福田英子

しかし、主に子女教育に生涯を費やした津田や石井と異なり、福田は自由民権運動や社会主義運動に身を投じるなど、革命家さながらの行動で、波乱に満ちた生涯を駆け抜けました。

「妾の半生涯」は、そんな福田英子が明治37年に40歳で出版した自伝的作品で、読み進めるごとに彼女の燃えるような闘争本能に驚かされます。女性の権利すら十分に認められていない時代に、別格としか言いようがありません。

まず彼女は、子供の頃から成績が超優秀でした。何と15歳で助教諭となり、母や兄と私塾を開いたほどです。そんな彼女を近所の悪ガキたちは「マガイ」(偽物)と呼んでいて、これは寸暇を惜しんで彼女が男の身なりで学校に通っていたことを嗤っていたためだと言います。

そんな才気煥発な彼女の運命を突き動かしたのが、当時熱を帯びていた自由民権運動です。様々な論客の見事な演説を聞き、すっかり魅入られた英子は上京。板垣退助に会うなど、活動家としての人生を突き進みます。

そして、この作品にも詳細に記述されていますが、彼女は「大阪事件」という出来事に深く関与することになります。

「大阪事件」とは、1885年12月に大阪で起こった自由民権運動の激化事件の一つで、朝鮮宮廷の混乱に乗じ、自由党左派の活動家であった大井憲太郎らが日朝の民主主義革命をめざしたものです。こんな物騒な企てに彼女は中心的に加わっていました。

大井憲太郎(天保14(1843)年 – 大正11(1922年)年)

爆薬の運搬にも関与しようとした英子は19歳で逮捕され、大阪の未決監獄に収監されます。獄中で自身の思想と行動を振り返り、愛国心と自由への情熱を綴った長文の手記を残しますが、後年、自身の若き日の行動を「理性なくして一片の感情に奔る」ものだったと反省しています。

その後も、彼女の政治的自由獲得、女性解放へ向けた激しい戦いは続きますが、その中で彼女は結婚も経験しており、夫の福田友作(1865 – 1900)とは3人の子供ももうけました。しかし、脳の病気にかかった友作はわずか36歳で死去。

さすがの英子も「アア人生の悲しみは最愛の良人に先立たるるより甚しきはなかるべし。」と綴っています。一方で、子供たちをしっかり育てることこそ夫の愛に報いることと奮起しており、女として母として強く生きる彼女の姿にも、読者は心打たれることでしょう。

 

次は宮崎滔天の「三十三年の夢」です。

著者の宮崎滔天(みやざき・とうてん、1871〈明治3〉年 – 1922〈大正11〉年)は、福田英子と同じ自由民権思想に根差す社会運動家で、「大阪事件」のさらに上を行く壮大な世界革命を企図。中国の近代化に奔走する孫文(1866年 – 1925年)を支援しました。

宮崎滔天(左上)と孫文(右下)

孫文の自伝「志有れば竟に成る」にも、「革命の為に奔走して終始おこたらざりし者」 として宮崎のことが書かれています。

さて、この「三十三年の夢」は、宮崎滔天(1871-1922)の33歳までの半生を描いた自叙伝で、辛亥革命に至る経過も記されていることから、中国でも昔から広く読まれてきました。

滔天はもともと、熊本県の裕福な家庭に生まれています。そのため、自由民権運動やキリスト教に触れる機会が多く、21歳のとき、アジアを救うには中国の独立と民衆の自由が不可欠だと悟り、兄とともに中国革命支援の活動を開始しました。

その後、孫文との出会いを経て、東アジア各地を駆け巡りながら革命支援に奔走。シンガポールでの国外追放や資金横領など、数々の挫折を経験しながらも、私利私欲を度外視して活動を続けました。

本書は、そんな滔天の波乱に満ちた半生をこと細かに記述したもので、とにかく面白くて眠れなくなるほどハラハラドキドキの連続です。

しかし、ここまで危険な思いをして革命に突き進んだ滔天とはいったい何者だったのでしょう?

実は、彼には行動を共にした彌蔵以外に、宮崎八郎(1851(嘉永4)年 – 1877(明治10)年)という兄がいました。八郎は、中江兆民が訳したルソーの「社会契約論」に感銘を受け、民権家仲間とともに西南戦争に参加、戦火の中で短い生涯を閉じた人物です。

※ちなみに八郎は、司馬遼太郎の「翔ぶが如く」にも登場します。

すなわち宮崎家の人々には、小事に拘らず民衆のために尽くすべし、の魂が宿っていました。そのため、革命に心血を注ぐ滔天の家計は、いつも火の車であったと言います。

また、滔天の子の宮崎龍介(1892(明治25)年 – 1971(昭和46)年)も、弁護士でありながら、わずかな報酬で貧しい人々の弁護に当たっていたそうで、まさに宮崎家のDNAと言えるでしょう。

ただし宮崎龍介は、父親以上に波乱含みの生涯を送っています。

その第一は「白蓮事件」です。筑豊の炭坑王・伊藤伝右衛門の妻で、伯爵の娘、かつ歌人として著名であった柳原白蓮(やなぎわら びゃくれん、1885〈明治18〉年 – 1967〈昭和42〉年)とのただならぬ仲が公となり、世の中を大きく騒がせました。

もうひとつは、龍介と中国の革命家との深い縁故を頼りに、泥沼化する日中関係を打開しようとした近衛文麿首相が彼を密使に立てたことです。結果、彼は憲兵隊に捕縛され、日中戦争の和平は叶わぬものになってしまいました。

なお、この時代の龍介をモデルに、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」が宮本龍一というキャラクターを作り上げ、ドラマに緊張感を持たせたのは記憶に新しいところです。

こうやってみると、宮崎家は日本の近代史に大きな影響を与えていることが分かります。その是非を問うのではなく、壮大な歴史の流れをこれらの書籍で辿ってみるのも有意義ではないかと考えます。

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