解説書に誤解させられた、ユーモア小説

あくまで個人的な経験ですが、漱石の「行人」ほど、いいかげんな解説のせいで“読まず嫌い”になった作品はありません。
昔、実家に「夏目漱石作品集」という箱入りの本がありました。「坊っちゃん」、「草枕」の抜粋、「永日小品」、「文鳥」あたりが収録されていたと思います。
そして巻末には、漱石の主要作品のダイジェスト文と寸評が掲載されており、当時、小学生の私は未知の漱石作品に踏み入るという経験に、心の底からワクワクしたものです。
ところが、「虞美人草」や「それから」、「明暗」の解説を読むに従い、「この作品は皆さんが大きくなってからお読みになるとよろしいです」とばかり書かれていて、ちっとも面白くない。
さらに、「行人」の解説が妙にじめじめしていて、頭のおかしくなった兄・一郎が偏執的な性格から自分も周囲も崩壊していくようなストーリーに要約されていて、とても読む気にはなれませんでした。そもそも昔の「行人」の解説はどれもこんな感じで、全編暗く鬱々した小説なんだな、と「私は」思い込んでしまっていたのです。
そうこうするうちに、「行人」は読まずじまい。
それが、以前ご紹介した文学YouTuber・古荘英雄さんの動画で「行人」が取り上げられたことをきっかけに再読し、今までの私の「思い込み」が誤りであったことに気付いたのです。
それどころか、あまりの面白さに睡眠時間を削って読み耽るほど熱中。陰鬱な作品どころか「猫」、「坊っちゃん」以来の漱石のユーモア小説の傑作ではないか、と思えるほどでした。それくらい、小説の面白さが凝縮されているのです。
また全体のフォルムも小説としての完成形を呈しています。
①ほぼ1年間の出来事であるのが、巧みな四季の描写によって明示されます。
②東京、大阪、和歌山、沼津周辺が舞台。各々の情景が眼前に浮かぶようなリアリティです。
③最終章は「こころ」と同じ手紙形式で、パノラマ的な全体描写に成功しています。
他にも、技巧的な素晴らしさをあちこちに感じます。またキャラクターも個性が際立っており、大正時代の小説にここまで瞠目するなんて、正直思っても見ませんでした。
現代人の精神構造と共通する登場人物たち
それでは、少し中身の紹介をしてみましょう。
主人公は長野二郎。裕福な長野家の次男であり、おおらかな性格。彼の語りによって物語は進んでいきますが、最初は大阪の梅田に旧知の岡田を訪ねるところから始まります。
そもそもが、友人の三沢と落ち合うため、過去に長野家の書生であった岡田のもとを訪れるわけですが、肝心の三沢がなかなか現れない。携帯もラインもない時代です。

結果、二郎は岡田家に7日ばかり逗留します。それにしても、当時の夏の梅田は、めちゃくちゃ暑かったんでしょうね。クーラーや冷蔵庫なんてありませんから。うだるような暑さが巧妙精緻な文章から生々しく伝わってきます。
さて、二郎の来阪にはもうひとつのミッションがありました。それは実家の下女のお貞さんの縁談をまとめることです。明治時代の結婚に本人の意思などありません。雇い主が候補者に会って、良いと思ったらそれで決定です。
後段で出てきますが、結局、お貞さんは佐野という男のもとに嫁ぐことになります。
その後、ようやく三沢が登場。彼は胃の病気で入院していたことが分かります。三沢はやや癖のある人物で、二郎もずいぶん気を遣っているようですが、変に気が合うのか、10日ばかりダラダラと病院に滞在します。「あの女」、「精神病の女」という二人の女性がキーワードとなりますが、思わせぶりな叙述ながら、それほど後半の伏線になるわけではありません。
そんな二郎のいる大阪に、母+兄・一郎+嫂・直という妙な組み合わせで旅行にやってきます。お貞の縁談をまとめるのが第一目的ながら、肝心なお貞はおらず、また一家の長たる父もいません。二郎にはお重という快活な妹もいるのですが、彼女もいない。まことに不思議な取り合わせです。
さて、この旅行の顛末でもって、あらゆる「行人」の解説書に記されてきた兄・一郎の奇態が初めて呈されるわけですが、読んでみると意外とそのインパクトは小さい。彼は冗談も言うし、明治の長兄らしい威風や骨っぽさも感じる。私の感想ですが、精神を病んだ人ではなく、令和でもよく見かける「面倒くさい人」なのかなあ、と思いました。
そんな兄に振り回される御一行は、大阪を出て、和歌の浦、和歌山と旅をします。

このくだりで、まさに“紀行小説”としての「行人」の面白さが堪能できるでしょう。車窓から見える当時の大阪南部~和歌山の鄙びた風景、晩夏の暴風雨、車夫が力強く走り回る様子など、私たちがもはや映像では見ることができないものが、映像以上にリアルに再生されます。
その中に、例の一郎の「弟試し」と直のそっけない誘惑の話が挿し込まれ、私たち読者はずるずると作中の世界に引き摺りこまれるのです。
令和のミステリアス女子・お直と悩める兄
さて、旅行から帰った後、ユニークな父と口の悪いお転婆な妹が登場し、さらに舞台は賑やかになります。妹・お重とのやり取りで、二郎はナイーブな青年ではなく、実はずいぶんお調子者であることが明らかになりますが、一方で結婚もせず「家」にいることに苦悶する心情の変化も見られ始めます。
そんな二郎を翻弄するのが嫂の直。「弟試し」をした一郎は、この嫂の日頃の態度に気が狂わんばかりに苦悩していましたが、二郎もまた、この嫂から物言わぬ誘惑を感じ取っていたのです。それは「好意」とは違う何か。偶然による暴風雨での一泊をはじめ、帰京後も際どいシーンは連発しますが、一線を越えないところに、かえって悩みの深さが増幅されます。
家庭内の微妙な空気の中、一郎の面倒くささはなお一層ひどさを増し、決定的な決裂を迎えた二郎はついに「家」を出る決断をしました。
新しい生活のスタートで窮屈な世界から解放された二郎ですが、それでも兄のことや残された家族のことは気になるもの。特に自分がいなくなってから家庭の中が暗くなってしまい、兄もまたテレパシーとか妙なものにハマりだしたという情報が入れば、気が気ではありません。
そこで、三沢伝手でHという人にお願いして、兄を旅行に誘うことを提案。押し問答の末、顛末を手紙でもらうことまで条件に付け、兄とHは旅行に出ます。もともと学友同士であった2人は、沼津、修善寺、箱根、国府津と旅し、最後は「紅ヶ谷」という秘境のような場所に到着します。
この旅もまた、見事な描写力でリアルに描かれます。

そして、漱石はこう締めくくった!
最終章はHが二郎に宛てた手紙形式で書かれていますが、「一人称小説」や「三人称視点、いわゆる神の視点」の良いとこどりで、生き生きとしてかつ、二郎では悟りえなかった一郎の心境の描写や、一郎を取り巻く周囲への批判を行うことに成功しているのです。
詳しくは、ぜひ「行人」を読んで頂きたいのですが、感嘆するほど素晴らしいです。
せっかく風光明媚な景色を楽しめる旅なのに、全てについて懐疑的な一郎は、Hに盛んに議論を挑みかけ、場合によっては殴りつけたりします。彼は神を否定し、何も考えずに気楽に過ごしている平凡な人たちに、見下しながらも心の底から羨望を抱いています。
そんな一郎に、Hはイスラムの故事などを引き合いに出しながら、山が動かないなら自分から歩み寄れ、と言ったりします。一郎はそれでも苦しみ続けますが、紅ヶ谷で小さな蟹を無心に見続けるあたりから、心境の変化を迎えるのでした。
そして、二郎に送った手紙の結びに、Hはこう書いたのです。
あなた方は兄さんが傍のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせているようですが、自分が幸福でないものに、他を幸福にする力があるはずがありません。雲で包まれている太陽に、なぜ暖かい光を与えないかと逼まるのは、逼る方が無理でしょう。私はこうしていっしょにいる間、できるだけ兄さんのためにこの雲を払おうとしています。あなた方も兄さんから暖かな光を望む前に、まず兄さんの頭を取り巻いている雲を散らしてあげたらいいでしょう。
これは、素晴らしい名文だと思います。普遍的と言っていいくらい、素晴らしい相互理解の思想です。これは、不寛容の時代、非常に窮屈な社会に生きている我々にとっても、漱石が与えてくれた金言として受け止めることができるのではないでしょうか。私はそう思うのです。
それから、長野家の人たちがどのような運命を辿ったかは描かれることはありません。しかし、我々の人生がそうであるように、Hの言葉を二郎がどう受け取ったか、それが周りにどう理解されていったかは長野家の問題で、小説の使命はこのHのことばが完結した、と言えます。
いま、皆さんにぜひお薦めしたい1冊。漱石のすごさを改めてご堪能ください。