シェイクスピアを「避けるべきか 読むべきか」
私にとってシェイクスピアは長年、「つまんないけど世評の高い劇作家」でした。
それでいて、大昔にイギリスのBBCで制作され、日本のNHKでも放送された「シェイクスピア劇場」は、テレビにかじりついて観ていた記憶があります。
※NHKのサイトに当時の番組表が詳細に掲載されているので、ぜひご覧ください。
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040939_00000
大好きなクラシック音楽においても、シェイクスピア原作の「オテロ」の鑑賞頻度は極めて少なく、また名作「ロメオとジュリエット」より、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の方がはるかに傑作と思っていました。
それでいて、ラム姉妹が書いた勝手にノベライズ版である「シェイクスピア物語」はボロボロになるまで読み耽りました。
すなわち、私とシェイクスピアの関わりは、愛憎交じるとても複雑なものだったのです。
実は、「憎」の方には理由があります。
当時、容易に買えたシェイクスピアは新潮文庫だったのですが、福田恒存先生の訳がとにかく固く、ほとんど何を言っているのか分かりませんでした。また、小中学生の頃に読む本はおおかた散文小説ですから、戯曲というフォーマットの構造的な読みにくさも、拒絶の原因だったかもしれません。
一方で、シェイクスピア劇の見事な再現である映像(BBCドラマ)や、子供向け小説(シェイクスピア物語)にフォーマットが変わると、途端に作品の素晴らしさがすんなり入ってきました。つまり、青少年期の私の読書レベルは、所詮その程度であったと言うことです。
※ただし、「オテロ」は作曲者ヴェルディの音楽が晦渋であること、また「ロミオとジュリエット」は、テレビであまりに何度も安っぽく再現されてしまうので、今でも好きになれません。
そんなこんなで、シェイクスピア嫌いの私は、そのまま40代に突入してしまったのでした。
読んで楽しい 註も見事な岩波の十二夜
さて、私は文学YouTuber、古荘英雄さんという方を大変敬愛しております。古荘さんの影響で世界文学への情熱が再燃し、読書欲が開花していく中で、シェイクスピアはどうしても避けて通れない作家になっていました。
それで、中年になってからシェイクスピアに再挑戦することに。まず、暗くて重い4大悲劇は避けた方が良いかなと思い、パス。長い史劇物もNG。
それから、私には合わなかった福田恒存版(新潮文庫)も除外対象にしました(福田先生、ごめんなさい)。やっぱり訳は最新のものでなければ読破は難しいと考え、再読1冊目には河合祥一郎訳による「から騒ぎ」(角川文庫)をチョイス。これが大変良かった!
古風で格調高いが敷居の高い福田版と違い、まるでコントのような軽快さと洒脱。登場人物が生き生きと躍動し、恋あり笑いあり陰謀ありと、最後まで愉しく読めること請け合いです。この「から騒ぎ」については、また別の機会に書こうと思います。
さて、今回どうしても書きたかったのは、わが家の本棚で長いこと春眠~冬眠状態にあった「十二夜」(岩波文庫)です。
久しぶりに読んでみて、シェイクスピアの喜劇とは何と面白いんだろう!と思いました。じゃあ、何で長いこと積読していたんだと叱られそうですが、蔵書があまりに多いので、何十年も前に買ってから、すっかり忘れていたのです。シェイクスピアへの関心の薄さも関係していたかもしれません。
この作品はイリリアという国を舞台に展開されます。船が難破し、離れ離れになった双子の兄妹。どちらも生き残りますが、お互いに兄・妹は死んでしまったものと思い込んでいます。
イリリアに流れ着いた妹のヴァイオラは男装。イリリア公爵オーシーノゥに出仕します。頭が良く、見栄えも良いこの若者をオーシーノゥはすっかり気に入り、自らが熱烈な恋愛感情を抱く伯爵令嬢オリヴィアへの求婚の使いとして、ヴァイオラを送りました。

さて、一方のオリヴィアですが、オーシーノゥの愛には一切興味がありません。ところが、使者として現れた美少年のヴァイオラにこともあろうにぞっこん入れ込んでしまい、すっかり舞い上がってしまいます。
当惑したのはヴァイオラでした。自分の正体は女。オリヴィアの愛は受け入れられません。それどころか、彼女は女性としてオーシーノゥに恋心を抱いており、この錯綜した状況の中、切ない板挟みの状況に苛まれるのです。
そして後半には、もう一人の生き残り・兄のセバスチャンも登場します。様々な伏線が絶妙に絡み合い、舞台上は大混乱に陥るものの、最後は見事なハッピーエンド。恋人同士が結ばれ、めでたしめでたしとなります。
しかし、これだけなら何か使い古された設定による、ご都合主義の作品ですよね。
それだけに終わらせないのがシェイクスピアの凄いところ。オリヴィア家に居候する連中の無軌道っぷりが百花繚乱のストーリーを紡ぎ出していきます。

酔っ払いの叔父、サー・トゥビー。その悪友アンドルー。抜け目のない小間使い・マライア。そして、この作品で重要な役回りをする道化、裏のストーリーの中心である執事のマルヴォーリオ。
彼ら庶民階級は、オーシーノゥやオリヴィア、ヴァイオラやセバスチャンとは相容れない境遇の人たちです。そんな彼らが、くだらない駄洒落を飛ばしながらお互い意地を張ったり、暇つぶしの悪戯をやるところにこの作品の妙味があります。
ぜひ、この間違いの喜劇、甘いラブロマンス劇を、かつての私のように読まず嫌いせず、多くの皆様に楽しんで頂きたく思います。
さて、この「十二夜」。皆様には私の本棚から目覚めた岩波文庫版を強く推薦します。訳者は、小津次郎(1920〈大正9〉年 – 1988〈昭和63〉年)。あの有名な映画監督、小津安二郎(1903〈明治36〉年 – 1963〈昭和38〉年)のまたいとこにあたります。
とは言え、この「十二夜」の翻訳には、そうした研究者の堅苦しい表現は微塵もありません。特に酔いどれ騎士や道化のべらんめえ調でウィットに富んだセリフ回しには、クスッと笑えたり、あるいは大笑いしてしまう場合も少なくなく、本当に読んでいて愉しいです。
さらに小津版の凄いところは、註とあとがきの素晴らしさにあります。アンドルーの馬鹿げたセリフの一つ一つにも、原文の英語の引用や、エリザベス期の時代背景の解説が丁寧に付され、本当に勉強になります。
特に、当時は上演時のセリフに厳しい規制がかけられていたことや、ピューリタンの厳格主義に対して庶民の反発が強かったこと、マルヴォーリオは当時実在した嫌われ者の執事がモデルであった、と言うトリビアなど、小津の広範で深い知識には思わず唸ってしまいました。
続く解説にはどうして「十二夜」というタイトルが付いたかの言及もあります。これがまた面白い。
このお芝居は1601年1月6日、エリザベス1世の宮廷で初演されたというのが、今日最も有力な説です。欧米では12月25日から12日目、一連のクリスマス祝いの最終日にあたる1月6日の公現祭の夜を「十二夜」として祝うため、このタイトルが付いたのではないか、と小津は指摘します(シェイクスピア研究家、レズリー・ホットソンの学説の引用)。

さらに興味深いのは、この祝宴の来賓にイタリア侯爵オーシーノゥという人がいたらしく、「十二夜」の登場人物名と一致します。すなわち、この作品がオーシーノゥのもてなしのために書かれた、という推察もできる、と小津は言います。
私の持っている岩波版は1988年刷で40年近くが経過しており、最近では異説を唱える研究者もいますが、これはこれで興味深いエピソードだと思います。
我々日本人は、受験期は別として、なかなか中世英国史に触れる機会はありません。しかし、シェイクスピアの喜劇台本を愉しみながら、こうした当時の王宮の様子を知ることができるのは、大きな実りだと思います。