カミュ 「異邦人」

異邦人

この本の作者 アルベール・カミュ
この本の成立年 1942年 刊
この本の巻数 1巻
入手のしやすさ ★★★★★
未成年推奨 ★★★★☆
総合感銘度 ★★★★☆

 

「一生のうちに一度は読んでおけ!」

 

そう言われる本は、それこそ世の中にごまんとあるわけですが、アルベール・カミュ(Albert Camus、1913年11月7日 – 1960年1月4日)が書いた「異邦人」こそは、まさにそうした「一生のうちに絶対に読んでおくべき本」です。

「異邦人」と言いますと、我々オールド世代には久保田早紀さんの名曲が思い浮かびますが、全く関係ありません(笑)。ただ、あの曲に漂う虚無的な感じというか、「不条理」を想起させる雰囲気は、どことなくカミュの「異邦人」と被る部分があり、曲のタイトルを命名したプロデューサー、酒井政利さんのセンスに脱帽してしまいます。

小説の方に話を戻しましょう。

カミュは、第一次世界大戦前夜の1913年、当時フランス領のアルジェリアで産声をあげました。生後すぐに父が戦死したため、母と兄の3人で母の実家に身を寄せ、貧しい暮らしを送りますが、そんな状況でもカミュは、幼少期から優秀な成績をおさめ、またサッカーに情熱を注いだことで仲間にも恵まれ、経済的な苦しさはあったものの、常に周囲から一目を置かれる存在となります。その後、奨学金とアルバイトで進学の道を拓いた彼は、ついに名門アルジェ大学に入学します。

ところが、第2次世界大戦が勃発し、カミュを取り巻く環境は日に日に悪くなります。大学を出たカミュは、雑誌の仕事にありつきますが、不正の糾弾や平和主義を謳う記事を書きまくったために当局の癇に障り、会社を解雇されてしまいます。それでも主張は曲げなかったと言いますから、向こう気が強かったのかもしれません。

そんな受難の記者時代、大戦の真っただ中に「異邦人」は書かれました。

主人公はムルソーという男です。

彼はどんなことにも斜に構えた無感動な態度を取り、相手が期待するような「情」のある言動は一切しません。

ストーリーは、「きょう、ママンが死んだ。」という有名なセリフ(訳語)で始まります。

 

(以下、ネタバレです。)

ムルソーは母親が死んでも涙を見せず、母の年齢も知らず、死に顔を見ようともせず、門衛とタバコ吸って雑談する。明くる日、ムルソーは同僚のマリーと海水浴をし、映画を見、一晩を共にする。

隣人にレエモンという男がいた。女たらしだが、真っ直ぐなところがあり、ムルソーともなぜか打ち解ける。しかし、女性に暴力を振るって、警察沙汰を起こしてしまった。ムルソーは、レエモンをかばう証言をする。

そのうち、出入りの増えたマリーから、愛だの結婚だのを求められる。ムルソーは突っぱねた。それは彼が女たらしなのではなく、結婚に否定的なわけでもなく、ただ単に必要性を感じなかったからだ。

ある日、レエモンが暴行した女のさしがね(?)で、アラビア人がムルソーらを襲撃しに来た。一度は難を逃れるが、ムルソーが一人でいる時、ナイフを持った刺客が現れた。ムルソーはレエモンから渡されたピストルで刺客を撃った。とどめの4発も撃ち込んだ。。。

ムルソーは取り調べや裁判を受ける。状況の緊迫性や正当防衛などは一切考慮されない。ムルソーのこれまでの無感動、世間ずれした言動に注目が集まり、事件に因果付けられる。それでもムルソーはびくともしない。周囲は焦れながらも、一種のサディスティックな群集心理により、決まった結末へとムルソーを落とし込むことに快楽的になっていく。

「この数年来はじめてのことだったが、私は泣きたいというばかげた気持ちになった。それは、これらのひとたちにどれほど自分が憎まれているかを感じたからだった。」

マリーとレエモンが弁護するも、ムルソーに下った審判は斬首刑だった。彼は上訴しなかった。

死刑の直前、司祭が現れる。罪やら神の赦しなどを説く司祭にムルソーは激昂する。

その時が来た。

「一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」

 

何とも胸の詰まるようなラストです。この作品は、とかく不条理とかムルソーの精神病理などがクローズアップされるため、深読みされすぎる傾向があるのですが、社会の恐ろしい一面を突いた、非常にリアリティの高い作品と言えるのではないでしょうか?フランツ・カフカの「変身」とどことなく共通するものを感じます。

小説とは関係ない世界ですが、現代日本だって「空気を読む」という言葉が普通に使われるように、非常に同調圧力の強い社会です。反対意見をぶち上げてヒステリックに論陣を張れる御仁なら良いのですが、ムルソーのように社会の暗黙のルールや「常識」を信じられず、しかしそれに牙を剥くこともしない人たちは、村八分で潰されてしまいます。

そんな社会の暗部に私たちは日ごろから傍観者であり続け、時には強者側だったりします。この小説を読んで「あっ」と思った方は私だけではないはずです。それだけ、カミュは社会に潜む悪意を見抜いていたと言えます。

あと、この作品の有名なセリフは、殺人の動機「太陽が眩しかったから」ですが、私はムルソーが司祭に掴みかかった時の恐ろしい剣幕の方に衝撃を覚えました。それはアンチ・キリストとかではなくて、神の言葉という錦の御旗を掲げ「常識」を押し付けようとする社会の傲慢さに対する、カミュの怒りなのかもしれません。

21世紀を越え、ネット社会が当たり前になった今、「異邦人」はどう読まれるのか?大変興味深いテーマだと思います。

 

 

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