泉鏡花 「高野聖」

高野聖(こうやひじり)

この本の作者 泉鏡花
この本の成立年 1900年 刊
この本の巻数 1巻
入手のしやすさ ★★★★☆
未成年推奨 ★★☆☆☆
総合感銘度 ★★★☆☆

 

 

 

泉鏡花と言いますと、絢爛たる近代文学史の一角を占める重要な作家ですが、私はこれまでロクに読んできませんでした。こんなエラそうなブログを立ち上げていても・・・、です。

最近になって、電子書籍(kindle)で昔の名作群がびっくりするほど安く読めるようになり、そうした流れの中でやっと泉鏡花全集を手に取った、というのが真相です。まあ、何だか申し訳ございません<(_ _)>

それにしても、この電子書籍版・泉鏡花全集、すごいですね!鏡花の188作品すべてが読めるのですから。

高野聖、歌行燈、婦系図、義血侠血、草迷宮、外科室、天主物語……。ほんと、宝の山と言って良いでしょう。

今日はそれらの中から、「高野聖」について書いてみたいと思います。

この作品は鏡花28歳の作。それまで尾崎紅葉(「金色夜叉の作者」)の書生であった鏡花が、一躍文壇から注目を浴びた出世作です。

あらすじはざっとこんな感じ(引用:Wikipedia)

若狭へ帰省する旅の車中で「私」は一人の中年の旅僧に出会い、越前から永平寺を訪ねる途中に敦賀に一泊するという旅僧と同行することとなった。旅僧の馴染みの宿に同宿した「私」は、夜の床で旅僧から不思議な怪奇譚を聞く。それはまだ旅僧(宗朝)が若い頃、行脚のため飛騨の山越えをしたときの体験談だった。……

旅僧・宗朝の話はざっとこんな感じ。(これはWikipediaではなく自分でまとめたもの)
宗朝は、信州・松本へ向う飛騨天生峠で、先を追い越した富山の薬売りの男が危険な旧道へ進んでいったため、これを追っていく。薬売りはひねた男で、決して同情に値するような男ではなかったが、それでも宗朝の僧としての帰依心なのか、あえて彼も旧道を進んでゆく。途中、自然の恐るべき脅威、グロテスクさに宗朝は恐れおののくが、何とか危機を脱し、漸く人里離れた孤家にたどり着く。そこには白痴の男と美しい女が住んでいた。

 

ここから先は読んでのお楽しみということにしておきますが、実に官能的な展開が待っています。しかし、そのものズバリという描写は出てきません。ひたすら女性の肉体的な妖しい美しさ、大いなる母性と魔性が鏡花のみごとな筆致で表現されていきます。

ちなみに、鏡花の文章は擬古文と型破りな口語表現(いやむしろスラングと言って良いでしょう。セリフに限らず、語りの部分にさえ出てきます)、そして世話物落語か歌舞伎のような美文が目まぐるしく交錯します。こんな文章を下手な素人が真似したら、とても読めたものではない拙文になるものを、鏡花は見事に破綻なく、一種の芸術作品のように仕上げているからすごいです。

例えば、宗朝が鬱蒼として妖気漂う森の奥深くに迷い込み、蛭に噛まれて錯乱するあたりはこっちまで具合が悪くなりますし、しがない旅僧の暮らしよりも女とともに享楽的に過ごしたいという欲求に支配されるあたりは、男性の心理を良く突いていると思います(口のくさい婆さんに渋茶を振舞ふるまわれるのが関の山、という表現は秀逸ですね笑)。

まあ「高野聖」は、内容についてはそれほど深くないです。鴎外とか漱石の小説みたいに、女の心理や僧侶の俗物ぶりなどを深読みしてあれこれ力説するのは野暮というものです。

それより、この怪奇な世界観、肌に空気が伝わるような卓抜した情景描写、そして文章の美しさに魅せられることこそ、泉鏡花を楽しむ醍醐味かと思われます。

ちなみに英訳もされています。このこった文章がどのように巧みに英訳されているかに触れることも、文学の楽しみの一つではないか、と私は勝手に考えております。

 

 

 

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA