空前の大ヒットとなった「カラマーゾフの兄弟」
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と言えば、世界文学の最高峰、ロシア文学を愛好する者なら必ず読んでおかなければならない傑作中の傑作ですが、最近の若い人なら2013年にフジテレビ系列で放送された素晴らしいドラマでご存じになられた方が多いのではないしょうか。
それにしてもあのドラマ。原作の登場人物たちを全て現代日本のステータスに置き換え、当時のロシアの時代背景や宗教観を今日に生きる人々の心の葛藤に昇華したのは見事だったと思います。さらに、原作のフョードルに当たる黒澤文蔵を演じた吉田鋼太郎のインパクトには、最初ドラマ化を訝しく感じていた私でさえ、圧倒的に打ちのめされたほどです。ドラマの低迷が叫ばれる中にあって、まさに見ごたえのある内容でした。
しかし、そのうえでやはり、多くの若い人にはロシアの大文豪・ドストエフスキーによる原作をまずは読んで欲しい、と思います。あんなに深遠で、生き生きとして、魂をゆすぶられるような読後感に浸れるような作品は、他に数えるしかありません。
ちなみに21世紀に入ってから、日本ではちょっとしたカラマーゾフ・ブームが起きました。そのきっかけとなったのが、光文社古典新訳文庫から出版された、亀山郁夫氏による翻訳です。
この翻訳は2007年に完成し、5巻累計で100万部突破という驚異的な発行部数を記録。海外の古典文学の訳本としては未曽有の大ベストセラーになりました。
亀山訳の長所はずばり分かりやすさです。これは出版元の光文社が、従来、日本で読まれてきた海外文学の格調高い、ややもすると文語チックな翻訳に対し、現代人にも理解しやすい言葉で新たに訳し直そう!というスタンスで古典新訳文庫を立ち上げたことも関係しています。
ところが、亀山訳が若者、とりわけ初めてドストエフスキーに接する層には大人気だったのに対し、一部の専門家からは逆に厳しい批判を受け、「反亀山訳」を掲げるサイトが複数立ち上がる事態に至ります。批判派側からすれば、亀山訳は誤訳がありすぎる。しかも、ストーリーの流れに合わない、キャラクターや状況に間違った印象を与えかねない致命的な誤りが多く、看過できないというのが酷評の理由でした。
ただ、英語やドイツ語と違い、ロシア語はかなり難解な言語のため、原書にあたることは容易でなく、よって亀山訳の何が悪いのかを素人が検証することは困難です。私個人の意見としては、たとえ疑問の箇所があっても、まずはドストエフスキーに触れることが重要であり、長い人生、様々な訳本に触れてみる方がよほど有意義だと考えています。
そうした意味で、亀山訳に偏見など持たれず、まずはこの偉大な作品に接して頂きたいですし。さらに読破された暁には、亀山訳と対極的な古い米川正夫訳にもぜひチャレンジ頂きたいと思うのです。
この米川訳は1917年、何と100年以上前に訳されていて、文体や言い回しなどはかなり古風な雰囲気を持っています。都合のいいことに、米川訳は手に入りやすい岩波文庫版(全4巻)で読めるものの、あまりの古色蒼然ぶりに憤るレビュアーさんもいらっしゃるようです。
それにしても1917年とは! ロシア革命や第1次世界大戦が勃発した年に、ロシアの文豪、ドストエフスキー畢生の大作に挑んだ米川の覚悟には驚きますし、その意気込みは作中からひしひしと伝わってきます。
また、お堅いだけでなく落語のような面白さに溢れているのも、この訳のお薦めなところです。特に作品の重要人物である粗野な父親フョードルと、暴れ馬の長男ドミートリイの口の悪さは捧腹絶倒で、ひどい暴言ではあるものの、どこかウィットに富んでいるのがとても愉しい。
あと、この作品の博愛を象徴する少年アリョーシャの話しぶりが実に愛らしく。固い文面の中ではとりわけ際立ちます。もうひとり、ミステリアスな次兄イワンの堅物ぶりもこの文体にハマっていて、有名な「大審問官」は強烈な印象を残します。
このほか、敬虔なゾシマ長老、かわいいのに突然「ござんす」と話すリーザ、個性的なカーチャとグルーシェンカなどなど。本当にみんなキャラ立ちしていますね。
古い古い米川正夫訳ですが、私を最初に「カラマーゾフ・ワールド」に誘った訳本だけに、個人的にはとてもとても思い入れが深い。決して絶版なんかならず、今後も多くの方に読み継いでほしいですね。
最後にもうひとつ、原卓也版(新潮文庫)も紹介しておきますしょう。
こちらは亀山版と米川版の真ん中を行く感じ。専門家によれば一番訳が精確で、かつドストエフスキーの原典の雰囲気を伝えているそうです。すなわち、文章が重くハードで、晦渋。悪く言えば、読んでいてしんどい。
ただし、米川氏の擬古文的な文体が苦手な方、亀山氏批判が気になって仕方がない人は、原訳一択だと思います。とびぬけた個性はないのですが、作品の姿を忠実に再現している訳としては最高峰です。
このように「カラマーゾフの兄弟」は、翻訳ごとにいろいろな色合いを見せてくれます。ベートーヴェンの交響曲が、フルトヴェングラー、カラヤン、アーノンクールの演奏で全く違って聴こえるように、我々がとらえきれない様々な可能性をこの傑作は内包しています。今後ももっと魅力的な新訳が登場するかもしれません。
この傑作をタイトルでしか知らない方、または苦手意識を持たれている方は、ぜひ読まず嫌いせず、騙されたと思って愉しんでみてください。