寝る間を惜しんで水滸伝 第1回

庶民の娯楽から生まれた「水滸伝」

以前、「三国志演義」「西遊記」と、中国を代表するエンタメ小説のことを書きましたが、今回は前2作以上にアナーキーで面白い「水滸伝」にチャレンジしてみます。

水滸伝は明代に成立した「白話小説(口語体で書かれた小説)」で、「三国志演義」「西遊記」「金瓶梅」とともに「中国四大奇書」の一つに数えられています。

作者は施耐庵とも羅漢中とも。ただ、施耐庵は実在しない人物と言う説が根強く、羅漢中の方も詳しい経歴はあまり分かっていません。

はっきりしているのは、この物語が施耐庵や羅漢中のオリジナルではなく、ある史実をもとに庶民の間で育まれてきた武勇譚が、何者かの手によって「水滸伝」と言う形にまとめられたということ。その何者かが施耐庵ないし羅漢中に推定される、と言うことです。

ちなみに「ある史実」とは、この物語の主人公的存在である「宋江(そうこう)」が北宋(960年 – 1127年)の時代に実在し、梁山泊を根城に反乱を起こしたことを指します。宋江と、彼に付き従った36人の豪傑たちは手勢を率いて大暴れし、当時の朝廷を大いに困らせました。そのことは中国の正統な歴史書の一つ、「宋史」にも記されています。

そして宋江ら36人の好漢の反乱の史実は、当時隆盛を極めた講釈師らの手によって様々に脚色され、明代(1368年 – 1644年)の初め頃に成立したとされる「大宋宣和遺事(だいそうせんないじ)」の中には「水滸伝」のエピソードの原型と思しき話がいくつか出てきます。

「大宋宣和遺事」は当時の講談本にネタを採っており、本来なら忌まれるべき賊徒たちが、南宋の頃にはすでに庶民最大の娯楽であった講談のヒーローに祭り上げられていたことを示します。不思議な話ですが、それはすなわち北宋末期の朝廷(徽宗・欽宗・高宗の3代にわたる御代、高宗の代に北宋が滅び、南宋が成立)がいかに出鱈目で嫌われていたか、の証左でもあります。

ただし、このあたりの時代の荒廃は「北宋」という未曽有の経済発展を遂げつつ、軍事力を犠牲にしたために周辺異民族に屈辱外交を強いられた国家の複雑な背景(さらに、徽宗の父の神宗の代に王安石と司馬光という優れた政治家を擁しながら、それが旧法派と新法派の深刻な対立を生みます)を理解する必要があり、それらを知ることでより「水滸伝」をさらに複層的に捉えることができるでしょう。

いずれにせよ、「水滸伝」は貴族や官吏、学者の手によって生み出された折り目正しい文学ではなく、世界でも稀にみる早さで庶民世界から生み出された、反体制エネルギー溢れる娯楽小説と言って差し支えありません。

次回は、「水滸伝」が本場中国でどのように受容されてきたかを書きます。

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