ヘルマン・ヘッセの世界(1)シッダールタ

少年漫画的な冒険絵巻 そして清々しい感動のストーリー

この本の作者 ヘルマン・ヘッセ
この本の成立年 1922年 刊
この本の巻数 1巻
入手のしやすさ ★★★★☆
未成年推奨 ★★★☆☆
総合感銘度 ★★★★★

ヘルマン・ヘッセ(1877年7月2日 – 1962年8月9日)は、ノーベル文学賞受賞者であり、ドイツを代表する文豪の一人です。日本では戦前から大変な人気があり、今日まで広く読み継がれてきました。

彼の代表作と言えば、まず何と言っても「車輪の下」でしょう。

私も中学生の時にこの作品に出会い、衝撃を受けて耽読しました。思春期特有の頭がズキズキするような不調、甘美な友情、自然への賛美など、どれも共感しかなく、最後の唐突な主人公の死も、ドイツ文学の月並みな終止形とは言え、暗澹たる読後感にしっかり引き摺られたのを覚えています。

この名作のほか、教科書で読んだ方が非常に多いと聞く「少年の日の思い出」。

最近では「車輪の下」に代わって若い読者の支持を得ているという「デミアン」。

晩年のヘッセが到達した究極の表現世界、「ガラス玉演戯」。

ヘッセは世界中で愛される素晴らしい小説をたくさん遺しました。さらには、詩の分野でも輝かしい業績を後世に伝えています。

そんなヘッセの作品は、主要作のほとんどが新潮文庫から出版されており、容易に読むことができます。「郷愁」、「春の嵐」、「知と愛」、「メルヒェン」、「荒野のおおかみ」等々。

そして、今回ご紹介する「シッダールタ」もです。

私はこの作品をかなり年をとってから読んだのですが、今まで読んできた小説とは何だったのか、と思うくらい、その異次元感に圧倒され、打ちのめされました。ここには起承転結のある面白い筋書きがあるのではなく、思想、哲学のような問い、そしてそれに抗い、昇華していく大河の如きエネルギーが満ち溢れています。

さっそく中身を見ていきましょう。

まず、タイトルですが、仏教の開祖の俗名“ゴータマ・シッダールタ”と関連付けて、釈迦の話かなと思うのですが、作品を読むと、どうも違う。逆に作中にゴータマ仏陀という涅槃に達した聖者が現れるので、主人公シッダールタは一介の修行僧に過ぎず、釈迦ではないと類推されます。

では、そのゴータマ仏陀が釈迦のことかと言いますと、作中にそれを断定する記述はありません。しかも、作品の終盤ではシッダールタ青年の方がゴータマ仏陀より高い境地に達しますから、もう一体何が何だか。ともあれ、釈迦の伝記ではないのは確かと言えるでしょう。

このシッダールタは、作中の長い年月で本当にいろいろな経験をしていきます。バラモンの子として生まれ、沙門の厳しい生活を選び、それにも疑問を持って離脱し、金持ちになり、遊女に弟子入りし、堕落し、再生し、父となり、苦悩し、最後に大いなる悟りに達する。

この凄まじい境遇の変化が、文豪の手にかかるとまるで自己体験のように自然に流れ、芳醇な表現力とリアルな共感性によって読者を夢中にさせるのです。

ちなみに、ヘッセの短編集「メルヒェン」の中に、「アウグストゥス」という作品があります。童話として読んだことがおありの方もいらっしゃるでしょうが、「アウグストゥス」と「シッダールタ」の展開は、相似形と言えるほど良く似ています。

これはおそらくドイツ文学の伝統的なパターン。「遍歴小説」の手法を採っているからと思われます。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスター」が代表的ですが、若い男子が自己成長を図って諸国を遍歴し、様々な経験を経て自分の内面を見つめ直していくのが、「遍歴小説」の王道パターンです。

シッダールタは、一度大変な堕落をします。しかし、その堕落がなければ彼は最後に悟りの境地に達し得なかったでしょう。アウグストゥスも、青年期の性根の腐った日々がなければ、後半、あれだけの悟りに達し得ず、お調子者の一生で終わっていたはずです。

シッダールタはラストでかつての友人、ゴーヴィンダに対し、彼の沙門としての禁欲を戒めます。そして知識は教えられるが、知恵は伝えらえないとも言います。

世界を愛すること、思想に縛られないこと。ひたむきな愛を有すること。仏教徒のお話でありながら、シッダールタの悟りには、キリスト教的な壮大な愛の影も感じます。

その一方、この作品の主要人物である渡し守のヴァズデーヴァと彼が生涯向き合った川が象徴するものは、中国の「道(タオ)」そのものな気がします。事実、ヘッセはインド哲学や、老荘などの中華思想を深く学んでいました。

さらに深読みすると、ヴァズデーヴァとの対話の中で頻繁に語られる「時間」の存在と超越。シッダールタが子供を探しに街へ戻った時、若い頃の自分と愛人・カマーラの過去の姿を見出したこと。

それらはヘッセが生きた時代、マルセル・プルーストが「失われた時をもとめて」の有名なマドレーヌのエピソードで時間の概念を破壊したり、ドイツの哲学者たちが「時間」について狂うほど思考し、ハイデガーが時間論を展開し始めた、まさにその頃の空気を感じさせるものです。

これだけ濃密に様々な要素が詰まった「シッダールタ」は、読む人の性格や状況によって、十人十色の感想を生み出すでしょう。ヘッセ入門として、ぜひ多くの方に読んで頂きたいと思います。

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