岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第5回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第1回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第2回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第3回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第4回)

岩波文庫解説目録2022に掲載されている、青帯(日本思想)の福沢諭吉関連4作品を紹介します。

日本人にとって、福沢諭吉(1835年 – 1901年)は大変身近な存在です。

なぜなら、日々(笑)お目にかかるアレの肖像画だからです。

ところが、大変古い話をして申し訳ないのですが、諭吉さんが1万円札に採用された1986(昭和61)年当時、私は少なからず「え?」と違和感を抱きました。

それまで1万円札の肖像画であった方からして、あまりに釣り合いが取れなかったからです。

それまでの肖像画の方がこちら。

当時の私は決して頭の良い少年ではありませんでしたが、さすがに聖徳太子がどれだけ偉い人物かくらいは存じ上げていたつもりです。

一方、当時新札の福沢諭吉が何をした人か。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 」と言ったことくらいは知っていました。でも、冠位十二階や十七条の憲法、法隆寺建立、隋との対等交渉など、古代日本においてのちの日本発展の礎となる様々な偉業を成し遂げた聖人と、このたった一言で有名な方をどうして比べることが出来ようか。

浅薄な少年はそう思ったものです。

しかし、後にこの諭吉が明治と言う日本史の分岐点において、太子並みの偉業を数々成し遂げたことを知った時、私は大きく恥じ入りました。

慶應義塾大学や一橋大学を開校し、日本国民が貴賎なく高い教育を受けられるよう働き続けた人。全ての日本人が西洋列強に劣らぬ知恵や技術を習得し、儒教的価値観から抜け出す、いわゆる「脱亜入欧」の重要性を強く訴え続けた人。

日本の近代化は、少なからず諭吉の尽力によって早まったと言っても過言ではありません。彼を偉人と言わずして何と言えましょう。

岩波文庫では、そんな諭吉に関するものを4冊出しています。

まずは、「文明論之概略」。1875年(明治8年)に発表され、6巻10章から成ります。明治8年と言いますから、西南戦争(明治10年)の2年前。幕府が倒れ、明治新政府による新たな時代は始まったものの、不平士族が不穏な動きをし、非常に不安定な空気が世間全体を覆っていた時代です。

そんな時代に、諭吉は旧弊をばっさり切り捨てます。

海外に赴き、東アジアの悲惨な状況を目の当たりにしていた諭吉は、権力や伝統に盲従している民衆の怠惰を嘆き、このままではわが国も列強に思うがままにされてしまうと危機感を募らせていました。

そこで、江戸時代には権力者にとって都合が良く、もはや唯一教のように崇められていた儒教を激しく攻撃したのです。彼は孔子や孟子がその時代には確かに立派な思想家であったにしても、数千年後の我々がいつまでも生きる拠り所にするのはおかしい。むしろ、権力に対して波風を立てず、自立の気風を奪う悪い考えだと喝破したのです。

そのうえで、西洋の優れた学問を迅速かつ貪欲に取り込み、西洋列強に追いつかなければならない。日本人の知識の総量を高めるべきだと説きます。

この諭吉の考えは現代にも通じる真理、と言えないでしょうか。昨今、政府はGDPの成長を非常に重視しますが、それには子孫が食べていけるような強力な価値を生み出さなければなりません。全ての日本人が良く学び、失敗を恐れずチャレンジできて初めて、日本経済復活が実現します。

実際、明治維新、近代化、戦後復興はエリートだけでなく、多くの名もなき庶民=我々のご先祖様の努力によって成し遂げられました。権力を一部の手に集中させようという考えもある中で、この諭吉の啓蒙はとてつもなく偉大な業績であったと思います。

ところで、長い封建時代の影響がいまだ強い当時にあって、かくも先進的な考えを心の中に培った諭吉の想像力の源流とはいったい何だったのでしょうか?

そのヒントは「福翁自伝」の中にあります。

これは言うまでもなく、福沢諭吉の自伝です。諭吉が間違ったこと一つもしない聖人君子で、ここには聖書のような美しい話が並んでいると思っている方には、ぜひ読んで頂きたい。

大分の中津に生まれ、19の時に長崎→大阪と遊学。若い頃の諭吉は、蛍雪時代と言ってもいいくらい、貧しさに耐えて必死に勉強していました。

ところが、彼が真面目一辺倒だったかと言うとそうではなく、大酒呑みで小悪党の限りを尽くしていたことを回顧しています。怒涛のように繰り広げられるエピソードに、多くの人がギョッとし、抱腹絶倒することでしょう。

そんな諭吉に25の時、転機が訪れます。江戸に行き、初めて英語というものに触れた彼は、誰から教わることもなく(というかできず)、独学で英語を学びました。学べば学ぶほどこの未知の世界に憧れを持った彼は、何と咸臨丸に乗ってそのままアメリカに渡ってしまうのです。ものすごい行動力!

咸臨丸

さらに渡欧、再訪米とすっかり外国の様子を見聞した諭吉は、ますます生来の反骨っぷりを発揮し、日本の後進性を憂い、早く西洋に追いつけ、と危機感を募らせます。死ぬまで民衆を啓蒙し続けた彼が、実際に何をどう思って行動していたのか、本人サイドから「福翁自伝」にはしっかり記載されていて、史料的にも大変貴重です。

なお、年をとっても笑えるエピソードや毒舌が満載で、ちょっとメンドクサイ人かなと思うところもありますが、自らの弱さも垣間見せながら、最後まで面白く読ませてくれます。

そんな「福翁自伝」と比べると、「学問のすすめ」はちょっぴりお堅めかもしれません。

冒頭はあまりに有名な一説です。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。

この言葉を聞いて、きっと多くの方が「ああ、諭吉さんは欧米に渡って、西洋流の平等思想を誰よりも早く日本に持ち込んだな。」と思われることでしょう。

ところが、この有名な一文は単に平等を謳った文章ではありません。後半に続きがあるのです。

人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

勉強をしないと這い上がれませんよ、とかなり強めのことを言っているのです。現在でも、要人発言が都合よく切り取られ、印象操作されることがありますが、この福沢の言葉も長らく日本では、間違った用法で利用されてきた、と言ってよいかもしれません。

この諭吉の言は、ようやく最近の日本で当たり前の論調になってきました(機会の平等)が、ちょっと前の時代では、人はみな平等だから結果も平等でなければいけない、という論調が強く、人によってはこの福澤の名文の冒頭を誤用していたと思います。

むしろ、福沢諭吉はそうした社会主義的な考え方とは真逆で、努力あっての結果と考える人でした。一方で、機会の不平等を徹底的に嫌い、無能や因習が取り仕切る世の中を早くぶっ壊そうという理念に一生をささげた人でした。

閉塞感のある現代だからこそ、改めて「学問のすすめ」を読み直して頂きたいと思います。

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