岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第7回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第1回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第2回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第3回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第4回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第5回)

岩波文庫【青】 解説目録2022を辿る(第6回)

岩波文庫解説目録2022に掲載されている、青帯(日本思想)の4冊を紹介します。

前回まで福沢諭吉の著作を立て続けに紹介してきましたが、再び青帯の番号順に戻ります。

青103-1は、西村 茂樹(文政11(1828)年 – 明治35年(1902)年)の「日本道徳論」です。

西村はもともと佐野藩堀田家に仕える側用人の息子で、青年の頃にはあの佐久間象山(文化8(1811)年 – 元治元(1864)年)に付いて砲術を学んでいます。

よって海防に明るく、ペリー来航後は幾たびも幕府に献策をするなど頭角を現し、やがて貿易取調御用掛に取り立てられたことで、外交の中枢を預かるようになります。

その後はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、明治6(1873)年に、福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと明六社(明治6年に結成されたことから命名。日本最初の近代的啓蒙学術団体として、 明六雑誌を発刊した)を結成。明治8(1875)年から天皇、皇后の進講を担い、宮中顧問官、貴族院議員、華族女学校校長、東京学士会院会員を務めました。

西村 茂樹

そんな西村の根本にあった思想が儒教です。これは意外かもしれません。だって明六社の他のメンバーには、あの儒教嫌いで有名な福沢がいて、また当時の政府要人らも悉くヨーロッパの新しい思想に感化されていましたから、西村の考え方はもはや古く、肩身の狭いものであったはずです。

しかし、元々が侍であり、近代化の名の下に儒教を排して西洋にかぶれ、日本人のアイデンティティが損なわれることを大いに憂慮した西村は、「日本道徳論」を執筆。その中で勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を掲げ、明治日本の道徳観念を世に示しました。

教科書編集の権限も持っていた西村の思想は、当然その後の文部行政に大きな影響を与え、学校現場での「修身」や「教育勅語」の確立に繋がっていきます。

今読めばさすがに時代を感じますが、戦前に至るまでの日本人の愛国精神とは何であったのか、知る上でも非常に貴重なドキュメントです。

 

次の青106-1、2、3は、新島襄(天保14(1843)年 – 明治23(1890)年)に関する著作です。

新島襄は、名前だけならご存知の方は多いでしょう。しかし、実際に何をした人かご存知の方は、それほど多くないかもしれません。

ザックリ言うと、日本でのキリスト教教育の先駆者で、同志社大学を作った人です。

新島襄

これだけだと、まあまあ偉い人だったんだな~という感じで終わるのですが、その一生を見るに、彼ほど破天荒でチャレンジ精神旺盛の人もいません。

彼は尊王攘夷の嵐が吹きすさぶ江戸末期に、たまたま手に入れた「聖書」に衝撃を受け、居ても立ってもいられなくなり、何と「密航」という手段でアメリカに渡ってしまいます。見つかったら死を免れない状況で、彼は大胆かつ緻密な計画を進め、「密航」を成功させたのです。

若き日の新島襄

とは言え、日本人なんて一人もいない異国の地。私だったら右往左往するしかありませんが、新島は人の手を借りて、マサチューセッツの全寮制寄宿学校に入学するという、これまた破天荒なことを平然とやってのけます。

その後、洗礼を受けて勉学に励み、名門アーモスト大学を卒業。理学士(専攻は鉱物学)を取得しますが、これが日本人初の学士の学位取得とされます。西洋の進んだ自然科学を未知の英語で学び、かつアメリカでその学力を認められたのですから、彼の才能と努力には驚きを禁じ得ません。

やがて、遅れて渡米した岩倉使節団に彼の存在が知られ、当然彼は重用されるところとなり、ヨーロッパにも随伴。帰米後は宣教師の資格を得、明治8(1875)年、11年ぶりに日本に帰国します。

そこからキリスト教伝道の日々が始まり、安中教会、同志社英学校を設立。まだ漠然とした社会情勢の明治初期において、市民社会に本格的な西洋文化を日本に持ち込んだのは、他ならぬ新島であったわけです。

ところで、この頃、新島はある女性と出会い、結婚します。その女性こそ、2013年のNHK大河ドラマで主人公となった八重(やえ)です。

八重もこれまた名の通った人で、戊辰戦争の籠城戦には男装して参加。スペンサー銃で奮戦し、かの大山巌に重傷を負わせたと言います。まさに豪傑で、そんな八重は手に負えない女と世の男性の評価は専らでした(実は八重が婚姻歴ありで、元夫と戦争で生き別れた背景も影を差しています)。

そんな八重を、男女平等の思想を持つ新島がたいそう気に入り、結婚。夫婦仲は終生、極めて良かったと言います。

新島八重

その後、同志社大学の設立と女子教育の普及に新島は邁進します。海外に何度も赴くなど、新島の精力的活動には目を見張るものはありますが、この頃から心臓病を発症するようになり、漸く資金面の問題が周囲の協力で目途が付き始めた明治22(1889)年、わずか48年の生涯を閉じます。

同志社大学は大正9(1920)年に開学しますから、新島の死後、様々な紆余曲折があったことは推察できますが、逆に言えば、新島の意志を汲むたくさんの仲間や教え子たちが粘り強く努力した結果ともいえるでしょう。

岩波文庫には、同志社のメンバーが編集した新島関連の本が3冊、収められています。これらの本で改めて新島襄という人物の偉大さを再認できるのと同時に、大正・昭和・平成・令和と先人の偉業を忘れまいとする同志社の皆さんの志の厚さには敬服せざるを得ません。

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